アレス・ザ・リベンジャー(1) - 2/7

 パンテレイモンは一般市民だ。ハデス区にある某エリュシオンマートでアルバイトに勤しむ、至って普通の青年だ。

 普通の青年、だった。

「く、そ……っ」

 パンテレイモンーー改め、プロメテウスは毒づいて口から垂れた血を右手で強引に拭った。神の力を失って久しく。残りの時間は命尽きるまで、アレイシアを見守り、普通の人間として暮らしていくのだと、勝手に思っていた。
 そのような平穏が、ある日突然失われることをプロメテウスは忘れていたのだ。昔も今も、奴は突然に表れて、プロメテウスからすべてを奪っていこうとする。
 プロメテウスは今、まさにオリュンポリスへの異界の壁をこじ開けて侵入を果たそうとしてくる怪物を見上げる。遥か昔、アレスと共に戦い、一度は勝利したテュポーン。それと同じオーラを纏った、怪物。
 ソレは巨大な蛇の様に身をくねらせ、縦長の瞳孔を宿した鮮黄色の瞳をぎょろりと動かし、そして鋭い牙が生えた大きな口で異界と異界を隔てる障壁に嚙みついた。オリュンポリスを内包する、一つの異界の壁に穴が開き、軋んだ音を立て始める。

(だめだ、私では時間稼ぎにすらならない……っ!)

 最初にプロメテウスが奴の接近に気づいてから、僅か数時間の出来事であった。人間としての体を構築するためだけに残っていた滓同然の神力を振り絞って、接近してきた怪物をどうにかこの異界から逸らそうとしたものの……すでに、世界の外に飛び出すだけでほとんどの力を使い果たしたプロメテウスに、できることなどひとつもなかった。
 自身の内臓をエネルギーに変換して、どうにか放った攻撃すら、怪物には雨粒程度の刺激にしかならなかったようだ。その巨大な蛇の瞳に、プロメテウスは一切映っていない。内臓が消失し、もはや生命維持すら危うくなったプロメテウスは一つの決心をする。
 ヴァンガードだ。あそこになら、神に匹敵する力を持つディオニソスXIIも、他のゴッドナンバーズも、そして何よりアレス零がいる。そこまで、人間の体よどうにか持ってくれ、とプロメテウスは自分自身に祈りながら、オリュンポリスへと舞い戻った。
 空から墜落するかのように、ヴァンガード本部の前に降り立つ。もはや、他人の目は構っていられなかった。開く自動ドアの遅さにすらイラつきを感じてしまう。

「はいはい、どちらさん……はっ!?」

 素っ頓狂な声を上げたのは、今まさにサボりのために脱出しようとしていたヴァッカリオだった。目が合った瞬間、プロメテウスは体の力が抜けてその場に倒れこみそうになる。ヴァッカリオは、慌ててプロメテウスの体を受け止め、その軽さに違和感を覚えた。見た目通りであれば、もっと重いはずだ。
 そして何より、受け止めたヴァッカリオの手にべったりとついた真っ赤な血。鼻をつく、独特な鉄の匂い。

「おい、しっかりしろ!」
「ディ……ディオニソス……」
「何があった!? チッ、今すぐ救急車を……」

 それを断る力すらなく。プロメテウスは、ひゅうひゅうと隙間風の様な空気を口から漏らしながら、何とか伝えようと口を動かす。プロメテウスを腕に抱き、それに気づいたヴァッカリオは口元に耳を寄せた。異常事態に気づいたゾエルやエウブレナが入り口に駆け寄ってくる。

「か、怪物が……やつが……ぁ、テュ、テュポーンだ……」
「テュポーン?」
「あ、ああ、テュポーン、アレスの命を、奪った、怪物……ぐ、ぅ……すぐ、そこ……せ、せ、世界が、また、壊れ……る……」
「しっかりしろ! おい! 今、救急車を呼んだ! プロメーー」

 ヴァッカリオが名前を呼びきる前に、プロメテウスの首がだらりと垂れた。完全に力を失った手が垂れ落ち、床にぶつかって音を立てる。

「ヴァッカ、いったい何が……」
「わっかんねぇ、けど……」

 ゾエルがヴァッカリオの腕の中を覗き込む。パンテレイモンだった人間の体は、構築するための神力を全て失い、ヴァッカリオとゾエルの目の前で光の粒子となって消えていった。――神の命が尽きた瞬間であった。
 ヴァッカリオの腕の中には、プロメテウスが身に纏っていた神の衣装だけが残されている。そこに人間の重さは、もうない。

「……ゾエル」

 その声は低く、ヴァッカリオの怒りと悲しみを表しており、そして何より、世界を守るべき責務を背負ったヒーロー、ディオニソスXIIとしての響きを帯びていた。

「英雄庁に緊急連絡だ、それも超一級扱いでいけ。ゴッドナンバーズは俺が集める」
「……わかった」

 ゾエルにとってヴァッカリオは部下だが、ディオニソスXIIは違う。ターコイズブルーの布を握りしめたまま立ち上がった男の背中に、普段とは全く異なる戦士としてのオーラを感じ取り、ゾエルは一人震えた。

「一体、何があったって言うんだ、一報で伝える」
「俺も詳しいことはわからない。ただ、プロメテウスは『アレスの命を奪った怪物』『テュポーン』と言っていた」

 それらの単語から導き出される答えは、簡単なものだ。サッとゾエルは顔を青ざめ、ディオニソスXIIに一つ頷くと、走って執務机に戻る。状況がわからずおろおろしていたエウブレナを手招きし、小さく緊急事態だ、と告げた。

「き、緊急事態ですか……あの……隊長は……」

 ディオニソスXIIは、すでにヴァンガード本部から飛び出して行ってしまった。エウブレナの問いに、通話端末を耳に挟みながらゾエルは目もくれずに答える。

「アイツは……アイツが、ディオニソスXIIとして動かなきゃいけねえほど、xxxxな事態ってことさ。いいか、エウブレナ。アンタもすぐにゴッドナンバーズの招集がかかるだろうよ。アレイシアを呼び戻しておけ」
「はっ、はいっ!」

 エウブレナにそう指示を出した後、ゾエルは端末を片手に英雄庁への報告に集中した。相手が混乱しているのが伝わってくるが、こちらだって何も状況はわかっていないのだ。
 ただ、一つわかる事は、神が命を賭してまで怪物の接近を伝えた、という危機的状況が刻一刻とこの世界に近づいている、と言う事だけ。

 

 蛇の怪物がなぜこの世界に目を付けたのか。どこの異界から流れてきたのか、それとも、以前アレスとプロメテウスが勝利したはずのテュポーンが復活でもしたのか。
 それは、人間では認知できない階層での話だ。そして、そのような事がわかったところで、何も意味をなさない。

「チッ!」

 アポロンVIは神器を一旦下ろすと、矢を放つ位置を変えるためにビルからビルへと飛び移った。空から降り注ぐ隕石の様な物体は、撃てども撃てどもキリがない。アポロンフォース総力で撃墜に当たっているが、徐々に取りこぼしが出始めている。
 英雄庁から緊急通達が全フォースに発されたのが約一時間前。同時に、アポロンVIはディオニソスXII発出のゴッドナンバーズ召集に応じていた。アポロンVIはその召集を耳にしたその瞬間、ついにその時が来てしまったのか、と一人、静かに目を伏せていた。執務机に飾っていた家族写真をフォトスタンドから取り出し、小さく折りたたんでジャケット裏の内ポケットに仕舞い込む。
 そこからの展開は一方的であった。どうやら怪物がこの世界を襲おうとしているらしい、という不正確極まりない情報。それはいったい、とアポロンVIがディオニソスXIIに問いかけるより早く、空が軋んだ音を立てて「割れた」。
 まるで巨大なガラスを割り砕いたかのような音が世界中に鳴り響き、世界中の人々が、その音に釣られて空を見上げる。見上げた空からは、まさに砕けた破片が地表に向かって落ちてくるところであった。
 臨戦態勢に入っていたアポロンフォースが真っ先に迎撃に向かい、その間に市民の避難を。……もし、プロメテウスの警告がなければもっと被害は広がっていただろう。

「市民の避難どうなっている!?」
「まだ三割です!」
「急がせろ!! ……避難が終了している区域の迎撃はもういい! その人員を避難が終ってないところへ回せ!!」
「はっ!」

 実質の、居住区放棄であった。アポロンVIはもはや建物に関する被害はやむなしと考え、人命最優先に切り替えた。それだけ、すでに追い詰められている。
 アポロンVIはまた一つ、大きな破片を撃ち落とした。一時間。一時間に渡り、休む間もなくフルパワーで対応し続けている。こめかみを伝う汗をそのままに、もう一度、弓矢を構え直した。

「……なんだ、あれは……」

 目を眇め、次なる獲物を探していたアポロンVIは雲の切れ間から覗いた「瞳」と目が合って、全身を強張らせた。これまでに対峙してきた、様々な敵とは全く違う――圧倒的な存在感。
 強者と弱者であれども、目が合えばその瞬間に格付けが行われる。しかし、今は違った。格付けにすら値しない、そう言われた……いや、言われてすらいない。目が合ったと思ったのはアポロンVIだけで、きっとその瞳の持ち主は羽虫が視界に入っただけなのだろう。それほどまでに、一瞬で、存在を無視された。
 アポロンVIの目の前で、その「瞳」が動いていく。白くたなびいていた雲が黒くなり、太陽が隠されて世界が闇に包まれる。そこかしこから、悲鳴が上がった。人間の本能に訴えかける恐怖。

「あれが……テュポーン?」

 何かを割り砕く音が空から降ってくる。それと同時に、物が擦れるような音が。ワンテンポ遅れて、アポロンVIはそれが蛇が這いずる音ではないかと思い至った。神話上のテュポーンは、蛇の様な異形の怪物であったと記憶している。

「本部、こちらアポロンVI。例の怪物と思わしき物体を視認した」

 アポロンVIは英雄庁に設置された作戦本部に、今見たものを報告する。大きさは、途方もなく。強さは、理解すらできず。せいぜい、蛇の様な瞳と音をしていた、と、アポロンVIらしからぬ中身がない報告になってしまったが。
 報告を終えたアポロンVIは、またひたすらに矢を放ち続ける。自分が立っているこの後ろには、まだ避難が終っていない市民が数多く逃げまどっているのだ。
 しばし、そうしていると、普段の様子とは打って変わり、厳しい顔と声のアフロディテIXがアポロンVIの隣に降り立った。

「アポロンVI」
「……アフロディテIXか」

 アポロンVIは彼女をちらりと見てから、矢を放ち続ける。話している暇はないから、勝手にしゃべってくれ、と言う事だ。アフロディテIXもそれを気にする様子もなく、勝手に喋り始める。

「前線指揮はあーしがやるわ」
「ああ」
「怪物討伐……ってゆーか、遅滞作戦」
「……ああ」

 遅滞作戦。つまり、市民が逃げ切るまで怪物の侵攻を遅らせることが目的。英雄庁も、あの怪物を倒すことは不可能と判断したのだろう。プロメテウスの警告がもっと早く、万全の態勢で迎え撃てていれば……と、アポロンVIは一瞬思ったが、それは詮無きことだ。市民の命が助かるだけ、儲けものだろう。

「アレス零やハデスIVには初戦から厳しい戦いになるな」
「ほんとにね……ひどい話だわ」

 アフロディテIXはただ、愚痴るようにそう言った。アレス零やハデスIVにとっては、これが初めての戦いであり、そして、最後の戦いになる可能性が高い。もちろん、そうならないようにアポロンVIは必要があれば、率先して命を差し出していくつもりではある。しかし、目に見える状況からしても、アポロンVIの命一つで事が済むとは思えなかった。

「アテナVII、ヘパイストスXIも一時的に神器使用許可が下りたのか」
「ええ。こんな状態、四の五の言ってられないでしょ?」
「それはそうだ……で、作戦の内容は? もう練っているのか?」
「ん……ヘラIIIとデメテルVで、一番効率が良いやり方をシミュレートしてる、のだけど……」

 アフロディテIXの段々と尻すぼみになっていく声に、アポロンVIは神器を下ろしてアフロディテIXに向き直った。飄々としているアフロディテIXすら、口に出すのも憚られる内容なのだろう。年相応の少女らしく、しゃがみこんで拗ねたような態度を見せるアフロディテIXに、アポロンVIは苦笑しながら「言ってみなさい」と促した。
 座ったまま、アフロディテIXは目だけでちらりとアポロンVIを見上げ、観念したかのように大きく息を吐いた。

「アレス零を中心とした特攻作戦。遅滞作戦って言ったケド、あの怪物に居座られたら困るのよ。シェルターはあくまでも一時避難所だし。だから、討伐でもなく、完全降伏でもなく、その間。引き分け、撃退を狙う方向になりそう」
「それはそうだろうな。何も間違ってはいない」

 恐らく、まだヘラIIIとデメテルVは違う道を探り続けているだろう。例え正しい最適解が現在、目の前にあったとしても、それはアフロディテIXが冷静でいられなくなるほどに、きっと、凄惨な内容なのだから。アポロンVIは、アフロディテIXが抱えている闇を分かち合うべく、続きを促す。

「……アレス零が最も火力があるから。だからね、アレイシアちゃんが、あの怪物に全力でぶつかっていくんだって」
「ほう」
「そこまでの道のりは、他のゴッドナンバーズが切り開く。シンプルな作戦よ」

 子供じみた口調で語ったアフロディテIXは立ち上がって空を見上げた。どこから沸いてきたのか知れない怪物は、オリュンポリスの青空を我が物顔で這いずり回っている。雲の合間からのぞく頭部は、何かを探すかのように瞳がぎょろぎょろと動き、時折、赤く細い舌がちらついていた。
 あの怪物に、アレス零をぶつける。そこまでの道はゴッドナンバーズが切り開く。口で言えば簡単だろうが――間違いなく、その過程で何人も死者は出るだろう。
 アポロンVIはジャケットの、内ポケットがある場所を握りしめた。少なくとも、ディオニソスXIIの死は確定している。アフロディテIXの口調から察するに、アレス零も。まだ産声を上げたばかりのヒーローに、アポロンVIは悲痛な思いをかき抱いた。

「とりあえず、もう少しして確定したら全体に発表されると思うわ」
「ああ……それまではひたすら、石掃除だな」
「あの怪物がこっちを伺ってる風なのも、不気味なのよね……」

 アポロンVIもアフロディテIXと同様に蛇の様な怪物を見上げた。何が目的なのか。知性があるのか、それとも本能だけなのか。暇つぶしに遊びにきたのか、破壊衝動に突き動かされたのか、それとも人間を食い散らかしにきたのか。
 どれをとっても、やはり、人間には理解の及ばない階層の話であった。そして、そのような事を知ったところで、この絶望はどうしようもない。