一月二十八日。午前六時三十分。
けたたましい目覚ましの音とともに、パンテレイモンは目覚めた。枕元の目覚まし時計は、やはり『昨日』と同じ日付を示している。
(いつだ、いつ巻き戻りが発生した……!?)
テレビの電源をONにすれば、やはりいつものアナウンサーがまたひき逃げ事件のニュースを伝えている。ループは間違いなく発生していた。
コップに牛乳を注ぎながら、『昨日』の記憶を振り返ってみる。昼を食べ、午後の清掃を追え、商品の品出しをして、そろそろ夜勤務のアルバイトが来る頃だな、と思って――そこまでだ。
パンテレイモンは牛乳を飲み干したあとのコップをシンクに置いて、険しい顔をした。巻き戻りが発生しているのは夕方頃。そして、朝は必ず午前六時三十分から始まる。
つまり、スタート地点もゴール地点も決まっていて、解決に奔走できる時間は半日にも満たない。しかも、巻き戻りが発生するたびに自分以外の人間はすべて記憶をリセットされてしまう。そう、『昨日』協力を取り付けたディオニソスXIIに対しても、また最初から説明のし直しだ。『昨日』、ヴァンガード本部で行われたであろう捜査や対応についても、パンテレイモンの耳に入っていない以上、すべて無かった事になってしまった。
(予想以上に、まずい状況だな……)
洗面台で顔を洗って、髪を整え、少し考えたパンテレイモンはエリュマのオーナーに連絡をする。急に体調不良になってしまい、アルバイトを休みたい、と。ずいぶんと嫌味をネチネチ言われたが、今はその時間すら惜しかった。オーナーの長い説教を聞き流したパンテレイモンは、すぐにヴァッカリオに連絡を取る。
通話口の向こうのヴァッカリオは眠そうな声をしていたが、それを無視してヴァンガード隊の女傑、ゾエルにも協力を仰ぎたいと伝えた。それを聞いたヴァッカリオも、さすがにただ事ではないと目が覚めたのか、相談場所に近所の喫茶店を指定してきた。
私服に着替えたパンテレイモンは、アレイシアに見つからないように喫茶店に滑り込み、ゾエルとヴァッカリオを待つ。アレイシアはこの時間であれば、いつも同じコースをランニングしているから鉢合わせしないように移動することは容易だった。『今日』もランニングをしていたことは、二つ前の『今日』で知っている。
「……よう、朝っぱらからとんでもねェ話を持ち込んでくれるみたいじゃねェか」
「洒落にならない緊急事態だからな」
喫茶店の奥でモーニングセットを注文してから大人三人で顔を突き合わせる。
プロメテウスの突拍子もない話を、ゾエルは黙って最後まで聞き、終わったころにようやくコーヒーを一口、口に含んだ。その頃にはヴァッカリオはすっかりモーニングセットをたいらげて、行儀悪くテーブルに肘をついてゾエルの口が開くのを待っている。
「とりあえず、ひととおりの話はわかった。で、アンタにとって『今日』は何回目なんだい?」
「三回目だ。初回は普通の日だから、ループとしては二ループ、ということになる」
「どれぐらい猶予があるかわかるか?」
「残念だがそれはわからない。……嫌な言い方だが、アレイシアの体調を確認すれば、あとどれぐらい耐えられるかはわかるだろう」
それを聞いたゾエルはチッと舌打ちをする。彼女はもう一度コーヒーを一口、飲んでから、今度は冷めてしまったトーストに豪快にかぶりついた。トーストと一緒に、これまでの情報を咀嚼するかのようにゆっくりと口を動かし、飲み込む。
「調査するだけじゃ、『明日』につながらない。適度なタイミングで、アンタに引継ぎをしなきゃいけないワケだ」
「……そういうことになるな」
「ボスとしては、半日じゃ片は付かないと見積もっている?」
ヴァッカリオの質問に、ゾエルは重々しく頷いた。だからこそ、さきほどどれぐらい猶予があるのかを気にしたのだ。
「オリュンポリス中の神話還りの誰かがどこかでいつかに何かをしてる。5W1Hのうち、一つも情報が揃ってねェんだからこりゃあ厄介にもほどがある」
「時間を司る神話還り、というヒントしかないからな」
「そう、それも問題なんだ」
ビシッとプロメテウスを指さしてゾエルは勢いよく話を続ける。
「時間を司る神話還り、なんて聞いた覚えがねェ。くまなく探せばいるかもしれねェが、直接、時間を操れるような強力なヤツだったら、今頃とっくに英雄庁の網に引っ掛かってるはずだ」
「まあねえ……でも、今目覚めたばかりかも……ってああ、そうか、そうなると英雄庁のデータベースにも登録がないから、神話還り、という括りだけじゃなくて、一般人も調査対象になるのか……」
「そういうこった。オリュンポリスの人口、どんだけいると思ってやがる」
頭を抱えたヴァッカリオをよそに、ゾエルは豪胆にトーストを口に運んだ。どうやら、彼女の中ではある程度指針も決まって、行動に移す腹積もりができたようだ。プロメテウスはゾエルの様子を見ながら、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。
「で、今後の行動方針は? 考えがまとまったのだろう?」
「ああ。まずは一番アタリが早そうな神話還りから総当たりだ。幅を広げて、時間に関連する神の神話還りなら何人かはいるだろうからな。その辺を攻めていく」
ゾエルは手に付着したトーストの粉を皿の上に叩き落としながら、プロメテウスに「で、アンタは?」と問いかけた。
「私とてやれることは限られているからな……エリュシオンホールディングスの、顧客データを漁ってみようと思う」
「なるほど。そりゃあいい考えだ。英雄庁のデータベースとは違う情報もあるだろうし、無駄にはならねェだろ」
「あとは情報の引継ぎのタイミングだが……」
「確か、巻き戻りの発生が夕方……十六時以降だったか?」
プロメテウスはゾエルの言葉に頷いた。前回のループの終わり、いつも十六時に搬入されるデリカッセンの受け入れをエリュマで行った覚えがあるから、十六時以降であることは間違いない。エリュマの、時間どおりのルーチンがありがたかった。
「だったら余裕を見て十五時。十五時に、一度資料を送り合って連絡をする。それでいいな?」
「構わない。連絡先を交換しよう」
ゾエルとプロメテウスがそれぞれ、データのやり取りをするための連絡先を交換する。隣で見ていたヴァッカリオはひとつ、あくびをした。頭脳戦は彼の得意とするところではないので……。
「ヴァッカ、コイツだけにお前だけがわかるような秘密を教えときな。『明日』、最初にそれを合言葉にしてこの男がループしてることを一発でわかるようにすれば話は早い。どうせこっちは『明日』には全部記憶がぶっ飛んじまってんだ。いちいち、信じる信じないだの、『今日』みたいに言い合いするのも無駄だ」
「えっおいらの秘密!? ゾエルのでいいじゃん」
「馬鹿言え、乙女の秘密をそう簡単に男に話せるかってんだよこのxxxxが!」
「乙女……えっ誰が乙女??」
ゾエルは立ち上がると、ヴァッカリオの後頭部をスパン!と叩いた。大変良い音が喫茶店内に響く。それを見ていたプロメテウスは恨めし気なヴァッカリオの視線を、肩をすくめるだけで受け流した。
ゾエルは先に帰る、会計は経費で落としといてやる、と会計用紙を持ってすたすたと去って行った。それを見送ったヴァッカリオは後頭部をさすりながら、プロメテウスに目を向ける。
「秘密かあ……どういうのがいいんだろ」
「お前だけが知ってる内容で、誰にも話したことがなく、シンプルなモノ、だな。……変なものはやめろ、私の夢見が悪くなる」
「ほーん。じゃあ……」
プロメテウスの顔を手招きすると声を潜めてヴァッカリオが合言葉代わりの「自分しか知らない秘密の話」をプロメテウスに語って聞かせた。
聞き終わったプロメテウスはギロリ、とヴァッカリオを睨みつけた。
「……このブラコンめ……」
「いいじゃん、シンプルでわかりやすくて、変なものじゃないでしょ」
「私にとっては変な話にしか思えん。夢にアポロンVIが出てきたらどうしてくれる」
「『明日』まで忘れなくていいんじゃない?」
にしし、と笑うヴァッカリオの表情を見て、思わずプロメテウスはゾエルのように頭を叩いた。もう一度、喫茶店内にスパン!と小気味良い音が響くのだった。
エリュシオンホールディングスビル、最上階にある特別名誉顧問室。長らく主が不在でありながら、丹念に手入れをされていたその部屋に埃臭さはなかった。
「お久しぶりです」
「やあ、お元気そうで何よりです……取締役殿」
「ははは、ワシももうすぐ引退ですよ。見てください、昔にあった髪の毛もすっかり無くなってしまいましてなあ」
そう言って、パンテレイモンに挨拶に来た取締役はつるりと禿げあがった頭をぺちんと叩いて見せた。
プロメテウスが例の一大計画を実行する過程で生まれたエリュシオンマート。そこから経営を拡大し続け、今ではコンビニエンスストア業に限らず、様々な業種を手掛ける超巨大カンパニーとなっていた。
パンテレイモン個人のはるか昔に経営権自体は放棄し、立ち上げ時から部下として苦難を共にしてくれたこの取締役にその座をすべて譲っている。しかしながら、創立者の名前すら消してしまうのはあまりにも忍びない、ということで、お飾りである特別名誉顧問としてパンテレイモンの名前は残っていた。
今回はそのお飾り役職を盾に、エリュシオンホールディングスの顧客情報にアクセスしようとパンテレイモンは画策してここまでやってきたのだ。
「パンテレイモン殿は昔とまるでお変わりないようで……まるでアポロンVI様みたいですね」
嫌いな人間の名前を出されて思わず舌打ちしそうになるが、それを堪えてにこやかに取締役の雑談に応じる。
パンテレイモンも、アポロン神の神話還りであって見た目は歳をとらない、という設定にしてあったのだ。今思い返しても、憎たらしくて忌々しいアポロン神の名を騙ったという事実に虫唾が走る。しかし、そうでなければ歳を取らないパンテレイモンが怪しがられるのも時間の問題であった。当時は致し方なかったのだ。
暇そうな取締役の雑談相手を済ませて追い返し、部屋に一人になったパンテレイモンは「特別名誉顧問用の眼鏡」を外して執務机に置いた。まだ当時の眼鏡が残っていて良かった、と思う。特別名誉顧問としてのパンテレイモンは特徴的な赤い瞳を隠すために、少しばかり特殊な加工をしたレンズの眼鏡をかけていたのだ。灰色の髪に赤い瞳、背格好まで同じではさすがにプロメトリックとして表舞台に立った時に騒がしいことになる。
長い足を持て余すかのように執務机の下で組み替えると、用意してもらった端末からエリュシオンホールディングスが誇る顧客データベースにアクセス。膨大なデータを検索しやすく、それでいて読み込み速度もバツグンに早いという、エリュシオンホールディングスの技術を結集したかのようなデータベースだ。
商品アンケート、プレゼント企画、ホテル事業の宿泊者名簿、コンビニやスーパーでの購買記録、通販サイトでの顧客情報……。オリュンポリス中で「エリュシオン」の名前を見かけないことはありえないぐらいに、市民の生活に浸透したエリュシオンホールディングスの顧客データベースは、神話還りにとらわれない幅広い個人情報を持っていた。ゾエルが懸念していた、「英雄庁のデータベースに存在しない神話還り」の情報も、うまくいけばここから拾える可能性がある。
(さて、時間に関連する神と言えば……アイオーンやホーラあたりが固そうだな……)
室内にパンテレイモンが端末を操作する音だけが響く。すべてのデータベースにアクセスする権限を持つパンテレイモンは、表向きの顧客名簿だけでなく、裏の、アングラな組織が集めた情報ももちろんチェックする。そこまで含めれば、英雄庁をも凌ぐ情報量であるかもしれない。
条件に該当しそうな人物をピックアップしては自分の脳内リストに追加していく。人外とも呼べる、桁外れの知能と記憶力が今回ばかりはありがたかった。
しばし、夢中になっていたパンテレイモンは、端末に集中しすぎて疲労を訴える目頭を揉みながら、休憩を兼ねて秘書にお茶を用意するように連絡した。突然やってきた謎の特別名誉顧問という人物にも、教育が行き届いた秘書はにこやかに対応してくれる。禿げ頭で毎日見慣れた取締役のお世話よりも、この謎に満ちた青年の方が秘書にとっては興味をそそられる対象だった、というのが真相だが。
「おや、これは?」
「新商品のモンブランケーキです。お茶菓子にちょうど良いかと思いまして」
「ありがたい配慮です。遠慮なくいただきますね」
にこり、とパンテレイモンが微笑みかければ、秘書の女性は少しだけ顔を赤くしてから下がっていった。
確かに、疲れた頭に甘いものは良く染み渡る。モンブランとコーヒーを腹に収めながら、パンテレイモンは机から顔を上げて凝った肩を解すかのように首を回した。室内に飾られたエリュシオンホールディングスの『お客様の幸せが、私たちの楽園』という創業の精神を目にとめ、少しばかり苦笑した。
パンテレイモンが――プロメテウスが、エリュシオンマートを起こしたのはもっと、自身のエゴによるものだ。このスローガンを考えたのは、当時の部下であり、さきほど散々雑談していった取締役の男。彼は本当によくできた人間で、熱意もあれば人を動かすカリスマ性もあった。冷徹な判断はパンテレイモンが。情に溢れる判断は取締役の男が。そうやって、二人三脚で駆けずり回ったあの頃が懐かしい。
「……まあ、そうやってばらまいた神話還り達のせいでこんな大変な目に遭っているのですが……自業自得、ですかね」
パンテレイモンはモンブランを食べつくし、フォークをかちゃり、と置くと背筋を伸ばしてもう一度端末に向き合った。自分が蒔いた種だから自分が対処しなければならないし、アレイシアの命は今や自分の肩にすべてかかっていると言っても過言ではない。
昔を懐かしく思う気持ちを振り払って、パンテレイモは対象の洗い出しを再開した。
それからしばらくして。約束の時間に、ゾエルから送られてきた資料を開いて確認しながら、耳元で苦々しい声を上げる女傑の言葉に耳を傾ける。
『やっぱり、対象範囲が広すぎる。弱い神話還りまで含めるととんでもねェ数だからな……ピンポイントで犯人を見つけるにゃあ、もうちっと何かしら情報が必要だ』
「……だろうな。私の方でもピックアップはしたが……この人数をすべてマークしていたらいくら時間があっても足りない」
しらみ潰しにするには、人数が多すぎた。時間をかければかけるほど、アレイシアの魂と体は分離し、彼女が苦しむことになる。
何か気になることはないか、と聞かれても、プロメテウスも唸り声をあげるのみだ。
「……最低限、巻き戻りが起きる時間だけでも把握したいところだ」
『そりゃあ重要な情報だな。しかもアンタしか確認することができないと来たモンだ』
「ああ。しばらくは時計とにらみ合いでもして過ごすことにしよう」
そうか、とゾエルは通話口の向こうで静かに言うと、僅かな間、口を閉ざす。プロメテウスがどうした、と話しかけるよりは早いタイミングで、ゾエルから声が届いた。
『明日、のゾエルが上手くやってくれるだろうよ』
「ずいぶんと投げやりだな?」
『できる限りの手は打ったからな。明日のアタシによろしく言っといてくれ』
「……わかった」
最後に、ゾエルは気づいたことがあったらまたすぐに連絡する、と言って通話を終了した。
彼女は彼女なりに、これから世界が巻き戻る、という未知の現象に恐怖を覚えているのだろうか。それとも、何も成果を出せなかった自分が許せなかったのだろうか。
プロメテウスは『明日』のゾエルによろしく言うことを忘れないようにしなければな、とひとつため息をついてから、時計を注視した。