6月3日
アポロンVIは執務室で受け取った報告書を眺めて、眉を寄せた。
「なんだこの……奇々怪々な……」
「ミステリーですね」
副官はため息をついた。神話還りが絡んでいるだろうから、と警察の方から協力要請が来たのだが。
「密室石化事件?」
「アパートのエレベーターホールなので、密室ではありません」
「消えた犯人の謎を追え?」
「どちらかと言えば、そっちですね」
軽口を叩きあった後に、アポロンVIはもう一度、事件の報告書を眺めて首をひねった。
事件があったのは、アポロン区にある某アパート。高級でもオンボロでもない、いたって普通のアパートだ。被害者は20代の男性。通報者も、本人。
というのも、エレベーターホールの隅でタバコを吸っていたところ、突然足元から石化が始まったのだという。本人は神話還りではなく、ただの一般人だ。
そこで慌てて通報し、病院に運ばれ、現在に至る。幸いにして石化はゆっくりとしたものであったから、すぐにアポロン区の病院で治療が行われ、現在は経過観察のために入院中だ。
「石化と言えば、メデューサだが……あれは、目が合わないと発動しないものだからなあ……」
神話上のメデューサと言えば、蛇の髪の毛に睨まれて、というところだが……今のところ、髪の毛まで蛇になってしまった、という神話還りの存在は報告されていない。となると、せいぜいが「目と目があった瞬間、麻痺した」程度の事故だ。
これにちなんだ恋愛ソングを歌う、メデューサの神話還りだけを集めたバンドがあるとかないとか。
「目を合わせる以前に、被害者は『ホールには誰もいなかった、自分だけだった』と証言していますね」
エレベーターホールの監視カメラには、確かに被害者の男性が一人でスマホを弄りながらタバコを吸っている映像だけが映し出されていたという。エレベーターホールということで、女性が一人、エレベーターを使用していたがそもそも男性の方は見向きもしていない。男性もエレベーターに対して背を向けていたから、後ろに誰かが通ったとしても特に気しなかったのだろう。
「被害者も壁の方を向いているようだし……目が合うような隙間はなさそうだな」
ふむ、とアポロンVIはもう一度、現場の状況と被害者の証言を眺めた。そこから導き出された答えは――
「よし、これはヘラIIIの知恵を借りた方が早いな」
――だった。考えてもわからないものはわからない。
むしろ、これだけ様々な現場証拠や被害者の証言が揃っているなら、ヘラIIIの頭脳を頼った方が早い、間違いなく。
ヘラフォースへの取次ぎを副官に指示しつつ、もう一度アポロンVIは報告書の内容を眺めた。被害者も突然のことでまだ何もわかっていないのか、被害届も出さずにいるらしい。
「……つながりました、ヘラIIIは対応可能だそうです」
「そうか、助かるな。すまないが、この件に関するデータをヘラフォースの方に送る準備をしてくれないか?」
副官が敬礼をして、ソファに座って端末を操作し始める。
さて、それではオリュンポリスが誇る頭脳の力を見せてもらおうではないか、とアポロンVIは半ば面白そうな笑みを浮かべながら、ヘラIIIへと事の顛末を語って聞かせた。
「おっアポロンVIじゃねえか」
「ゾエルか」
どうしたんだこんなところで、とアポロンVIは言いそうになって、そういえばゾエルは元へラフォースの所属で、ヘラIIIの副官であったな、と思い直して口を噤んだ。まあ、ゾエルにとっては面白い話題ではないだろう。
「アポロンVI様がなんだって、ヘラフォースなんかに用が?」
「ああ、ヘラIIIに先ほどちょっとした事件を解決してもらってな。その事後報告とお礼を兼ねて、菓子折りを持ってきたところだ」
もちろん、そのついでにヘラフォースとの合同訓練の話や、今後のゴッドナンバーズの定期会合についての打ち合わせも。アポロンVIがただ菓子の配達だけで他フォースに足を運ぶわけがない。
「事件ねえ……」
「そうだ。……ゾエル、君も推理してみないか?」
「推理ぃ?」
「ちょっとしたミステリーさ。――とあるアポロン区のアパートで……」
アポロンVIは、事件のあらましをゾエルに語って聞かせた。ゾエルは歩きながら、顎に手を当てて悩む仕草をする。
「……被害者の証言は『誰もいなかった』。だが、実際は女性が一人、エレベーターに乗り込んでいったんだな?」
「そうだ」
「エレベーターホールに、鏡はあったのか?」
「いや、ないぞ。……メデューサの神話還りの事故と言えば、やはり鏡だからか?」
そりゃな、とゾエルはぞんざいに答えた。そのまま、また黙り込んだゾエルをアポロンVIは面白そうに見る。気づけば、ゾエルの歩くスピードはかなり遅くなっていた。
「エレベーターに乗った女性は、メデューサの神話還りだった?」
「ああ、その通りだ。だが、彼女はちゃんと保護用のゴーグルをつけていたし、何より、人を石化させるほどの強い力は持っていない」
「ふーん……被害者から、被害届は出たのか?」
ゾエルの問いに、アポロンVIは目を瞬かせた。それから、いたずらを企む子供の様に破顔し、「いや、出ていない。本人の希望だそうだ」と告げた。
その言葉でゾエルは何かしら一つの答えにたどり着いたようだ。
「ところでアポロンVI、推理が当たったらなんか賞品でも貰えンのか?」
「コーヒーでも奢ってやろうか」
「シケてんな……まあいい、犯人は二人いる」
「ほう!」
アポロンVI立ち止まって、ゾエルを見上げた。ゾエルも立ち止まって、にやりと笑う。
「まずは石化の犯人。これはエレベーターに乗っていった女性で間違いない。メデューサの神話還りなんだろう?」
「そうだ、だが……」
「そう、メデューサの神話還りだからと言って、背後の人間を石化する、っていうのは無理がある。それに、力もそこまで強くないと来た」
ゾエルは一度言葉を区切り、アポロンVIが頷くのを確認してから話を続けた。
「そこに、もう一つの『事件』が混ざりこんだ。……盗撮、だ」
「……ふむ」
「石化の被害者の男は、背中越しに彼女を盗撮していたのさ。タバコを吸いながらスマホを弄ってた……弄ってたんじゃねえ、カメラを起動して、背後の女性を見ていたのさ」
「それで?」
「ま、こっからは完全に事故だけどな。メデューサの女性は、きっとメイク直しか何かをしたかったんだろう。保護用ゴーグルを外して、手鏡を使って自分の顔を見ていたんだ」
アポロンVIは楽しそうな笑みを顔全体に広げて、ゾエルの言葉を待った。ゾエルも、少し肩をすくめたようなリアクションをするだけにして、推理の続きを吐き出す。
コーヒーには間違いなくありつけるだろう、これだけアポロンVIがわかりやすい顔をしているのだから。
「その手鏡に映った顔を、盗撮犯の男はスマホの端末越しに見てしまった。その時に目が合ったんじゃないか」
「……あと一つ。『女性は人を石化するほどの力は持っていない』という点については?」
ゾエルはその言葉に、ハッと鼻で笑って返した。
「鏡で反射して、そこからカメラを通して。メデューサの神話と言えば、鏡だって言っただろ。複数回、映像化の経路をたどるうちに力が強化されちまったんだろ」
その答えに、アポロンVIは満足そうに頷く。前方にあった自動販売機に目を向けて、無言でゾエルを促した。
「見事だ。……コーヒーはブラックでいいか?」
「ああ」
「メデューサの神話還りの力が強化される事例は、今回が始めてだ。よくそこまでわかったな」
「メカニズムはわかんねェけどな。『神話』っていうベースがありゃあ、何かしら想像はできる」
メデューサは、鏡に映った自分の姿を見て石化してしまった。鏡でなくとも、生活する上で水面や自身の髪の先端など、「自分を見る機会」はメデューサにもあったはずなのに、「鏡」がダメだったのだ。
「メカニズムはこれから解明されていくだろう。……ところで、君の推理はあれで終わりか?」
「あァ?」
コーヒーを半分飲んだゾエルは、アポロンVIの言葉に怪訝そうな顔をした。実はヘラIIIの推理には続きがある、と言う。
「……男は、盗撮犯ではあったが……その事実を知った、メデューサの女性の方も、被害届は出さなかった」
「……は?」
「まあ、つまり。男は女に片思いをしていたわけだ。それで、実は女の方も男の事を意識していて……今度の事件をきっかけに、交際を始めた、と」
「まてまてまて」
情報量の多さに、ゾエルは泡を食った。そもそも、ヘラIIIの推理の続きはどこに。そんな慌てたようなゾエルの顔に、アポロンVIはクスクスと笑いながら話を続けた。
「石化した男性が被害届を出さなかったのは、盗撮がバレたらまずいから……君はそう思ったのではないか?」
「ああ……! まさか……」
「そう、それが本題ではない。男は、彼女を庇ったんだ。だから、『自分以外誰もいなかった』と嘘の証言もした」
「マジかよ……」
ゾエルは思わず天を仰いだ。確かに、盗撮と言っても、確実に下着を覗いてたわけでもなく、単に背後の女性の姿を見ていただけだ。どちらかと言えば、盗み見に近いだろう。
「石化、の時点で彼女が犯人だとすぐにわかったのだろうな。だから、嘘の証言をして、被害届を出さず、大事にしないようにした」
「はー、なるほどねえ……ヘラIIIは、男女の色恋沙汰までオミトオシ、ってか?」
「……ヘラIII曰く、『男は女の後ろ姿を一目見るだけでも良かった……とてもピュアな恋愛感情ね、嫉妬しちゃうわ』だそうで」
それを聞いたゾエルは、残っていたコーヒーを一気に喉に流し込んで、ゴミ箱に空き缶を突っ込んだ。
「ったく、嫉妬なんて、ヘラIIIが言ったらシャレにならねーだろ」
「ハッハッハ、ヘラIIIのブラックジョークはなかなか笑えないものがあるな」
アポロンVIも当時のヘラIIIの声音を思い出したのか、少しばかり遠い目をしながらゾエルに同意した。
何はともあれ、アポロン区で発生した『怪奇!エレベーターホールの石化事件!消えた犯人を追え!』は無事に解決となったのであった。
「さすが、見事な推理であったな……と」
「ん? なんだ?」
ふと、足を止めてアポロンVIが視線を動かす。ゾエルもそれにつられてアポロンVIの視線の先を見たが――特に、何もない。もしかしたら、神話還りの視力なら何か見えているのかもしれないが。
「いや、何でもない。何かあったような気がしたのだが、気のせいだったようだ」
「ふーん。アンタ、疲れてんじゃねェのか?」
「……かもしれん」
そう言いながら、アポロンVIはしきりに眉間や目じりを手で揉んでいた。珍しい、とゾエルはその様子に目を剥く。
アポロンVIと言えば、807連勤しても平然としていられる剛の者、疲れ知らずのブラック公務員そのものだ。それが、人前で疲れていると認め、実際に目を揉んでいる。
「今日ぐらい、とっとと帰った方がいいじゃないのか?」
「残っている仕事を片づけたら、さすがに残業せずに帰るつもりだ。集中力もいまいち切れやすくなっているし……最近、視力の方も衰えて来ているのか見間違いが多くて……」
ぼやくアポロンVIの後ろ姿を見送ったゾエルは、どことなく不気味な物を感じ取っていた。こういう時の勘は、たいてい当たるものだ。
ゾエルは自分の勘に従って動き出すことにした。当たる勘は、大切にした方がいい。
ヴァンガード本部へ「今から戻る」と連絡をいれるついでに、ヴァッカリオを呼び出す。……案の定、本部にはおらず、どこかをほっつき歩いているようで。
アレイシアにxxxx野郎を探し出してくるように指示して、通話を切った。
空はどこまでも青く、曇り一つない快晴。それがまた、嵐の静けさの前のようで、ゾエルは少しだけ太陽の眩しさとは違う理由で目を細めるのであった。
6月4日
「申し訳ありませんでしたっ!」
アポロンフォース執務室。難しい顔をしたアポロンVIの前で、頭を下げているのはハデスIVとその副官だ。九十度直角に曲げられた丁寧なお辞儀からは十分な誠意が伝わってくる。
「頭を上げてくれ。まず、謝罪は受け取ろう」
その言葉に、ハデスIVは顔を上げるが、その顔は強張ったままだ。まだ、緊張は解けていない。
本日、午前。ハデス区に端を発するヴィランの強盗事件で、逃げた犯人を追ったハデスフォースのメンバー達が越境し、アポロン区で許可なく人造神器を使ってしまうという規則違反が発生した。
それだけならまだ良かったものの、アポロン区で定められたヒーローの活動制限をかなり無視した戦いをヴィランと繰り広げ、挙句の果てには一般市民にまで被害が及んでしまった。さらに悪いことに、どう考えても過剰攻撃、と言わざるを得ない状況であり、ハデスフォースに責があるのは明白であった。
「数日前のゼウスIの案件より質が悪いな……」
アポロンVIは一人、ハデスIV達に聞こえないように呟きため息をついた。ゼウスIは単独で、しかもかなりの自由裁量が許されるゴッドナンバーズであった。付け加えれば、器物破損こそあったものの、人的被害は一切出していない。
「とにかく、だ。ハデスフォースには今後、こういった事が起こらないように再発防止に努めてもらいたい。ついては、再発防止策を内部で策定の上、こちらにも報告して頂きたい」
「はいっ!」
「事を起こしたヒーローに対する制裁については、英雄庁と協議の上、決定し通告する。必要があれば、そちらにも金銭なり人員なり、何かしら補償してもらうこともあるやもしれん」
「了解です」
ハデスIVは背筋を伸ばしたまま敬礼をした。内心は、大きくため息をついているだろう。何しろ、まだエウブレナはハデスIVとしてトップに立ったばかりであり、ハデスフォース自体も組織運営が安定軌道に乗ったとは言えない。
アポロンVIとしても、そのあたりを勘案して英雄庁に厳しい処分は求めないつもりだ。かといって、過度に甘やかすつもりもない。トップとしての責任は、しっかり果たしてもらわねば。
「……とはいえ、ハデスフォースもまだ落ち着かないであろうからな。今回のヒーロー達も、まだヒーロー成り立てであったのだろう?」
「……そうです……」
ハデスIVは敬礼を崩し、胃のあたりを抑えながら頷いた。ハデスIVとて、ゴッドナンバーズ成り立て……むしろ、ヒーローとしても活動を始めてまだ一年と少しばかり。自分と大して変わらない経歴の部下を持って、ずいぶんと苦労しているようだ。
その様子にアポロンVIは苦笑する。時計をちら、と見れば、間もなく定時であった。
「時にハデスIV……いや、エウブレナ、今日は残業していくのか?」
「え? 残業、ですか?」
ハデスIVはこてり、と首を傾げた。そうしてみれば、やはり年相応に可愛らしい少女にしか見えない。アポロンVIは自分の副官に目を送ると「今日は定時であがるぞ」と告げた。副官は一つため息をついて、むしろそれが普通です、と半ば投げやりに答える。
「……ハデスIV、本日は定時で上がってもよろしいかと」
「え、でも、この件の書類を……」
「それは明日でも間に合います。今週の残業時間がすでに英雄庁規定の就業規則上限に近づいておりますので、これ以上の残業はお控えください」
ぴしゃり、と副官に叱られて、ハデスIVは少しばかり首を竦めた。どちらが上司かわからないものだが、ハデスIVの副官の方がヒーロー歴はずいぶんと長いのだから仕方ない。
「話はついたようだな。ではエウブレナ、少しばかり食事にでも行かないか? ……ああ、デートなどというつもりはないよ、ただ、ゴッドナンバーズの同僚として、たまには親交を深めるのもやぶさかではないかと思ってね」
アポロンVIはそう言いながら、執務チェアから立った。副官は心得たかのように、渡された書類を持って敬礼する。
「ハデスIV、本日は直帰で処理しておきます。お疲れ様でした」
「えっ……えっ」
頼りになる自分の副官は、そう言った後にアポロンVIの副官と何かしら喋りながら執務室から出て行った。後に残ったのは、帰り支度を終えたアポロンVIと、ぽかんとした顔のハデスIVのみ。
「気を回させてしまったかな。まあいい、荷物もあるだろうから一度、ハデスフォースに寄ってからにしようか」
事も無げに言ったアポロニオに促されて、ハデスIVも執務室から退室する。最後に、アポロニオが部屋の電気を消し、執務室の鍵を閉めて本日の業務は終了だ。
ハデスフォース近くの少しばかり古ぼけた雑居ビルの前に、エウブレナとアポロニオは立っていた。
アポロニオに先導されて、ビルの階段を下りる。目的地は地下にあるらしい。
「地下にちょっとした洒落たバーがあってな。君はまだ未成年で飲めないだろう? 私も下戸だからな、あまり酒を嗜むつもりはないのだが……ここのバーなら、酒を飲めなくてもちゃんとした料理を出してくれる」
「そうなんですか……」
初めて訪れるバーという存在に、エウブレナはドキドキしながらアポロニオの後を追った。薄暗い階段の奥には、煤けたような木製の扉がある。店名が書かれたような看板はどこにもない。
アポロニオが扉を押すと、からんからんとベルが鳴った。そして、扉の向こうから控えめな暖色系の明かりが漏れる。同時に、ゆったりとしたジャズミュージックがエウブレナの耳に届いた。
「いらっしゃい」
「二人だ」
「どこでもどうぞ」
カウンターの中にいたマスターは、ちらりとアポロニオとエウブレナに目を向けた後、静かにそう言った。丁寧と言うわけでもないがぶっきらぼう、と言うわけでもない。エウブレナにとっては、珍しい接客の態度だ。
「カウンターでいいだろうか?」
「あ、はい!」
アポロニオはすたすたと歩いて、カウンターに席を取った。エウブレナもその隣に着席する。客は二人だけの様だ。
これを、とアポロニオからメニュー表を差し出されてエウブレナはぺらりとめくった。ファミレスの様な写真やイラストがきらびやかなものと違って、料理名と少しばかりの解説しか書かれていないシンプルなメニュー表。
「マスター、私はオムライスセットを一つ頼む」
「はい。……お嬢さんは?」
「わ、私は……シーフードパスタをお願いします」
マスターはひとつ頷くと、カウンターの奥へと引っ込んでいった。向こうに厨房があるのだろう。
「ふふふ、懐かしいな」
「?」
「ここは……君のお父さん、クリュメノスによく連れてきてもらったんだ」
「パパが……」
そう、とアポロニオは穏やかな笑みを浮かべて相槌を打った。
「私はここに座って、クリュメノスは今、君が座っているところに座っていてね。ゴッドナンバーズ同士の愚痴や、英雄庁のこれから、部下の育成に……それから、反抗期のヴァッカリオについての相談だとか。いろいろ、話したものだ」
ヴァンガード隊隊長の反抗期。エウブレナはマスターが用意してくれたお冷に少しばかり咽つつ、脳裏にヴァッカリオの反抗期、を思い浮かべてから頭を振った。ちょっと、想像がつきそうにない。
「そういえば……たまに、パパが遅かった日があって……とてもお酒臭かったことを覚えています」
「ああ、きっとここで飲んだ帰りだったのだろうな。実は、私も君の家には何回かお世話になっているのだが」
アポロニオはバツが悪そうに笑いながら、「ここで潰れて、クリュメノスに連れて帰って介抱してもらった事がある」と話した。エウブレナはぐでんぐでんに酔っぱらったアポロニオを脳裏に浮かべようとして……そちらも、想像がつかなかったのでやめておいた。
「あ、そう言われてみれば……だから朝早くにたまにアポロニオさんが家にいたんですね?」
「そういう事だ。幸いにして二日酔いとは無縁だったからな。クリュメノスの代わりに、朝から君と遊んだこともあったように記憶している」
二日酔いで起きてこられないクリュメノスの代わりに、アポロニオおじさんが遊んであげよう、というわけだ。朝早くからヒーローごっこでよく遊んでもらった覚えがある。
さすがに同僚となった今でもアポロニオおじさん、と呼ぶわけにもいかず。かといって、アポロンVI様、というのも同じゴッドナンバーズとしておかしいだろう、として、今はアポロニオさん、と呼ぶことになった。
アポロニオがここのバーを懐かしい、と語れるようになるまで、長い時間が経ち、エウブレナとアポロニオの関係も変わって来たということだ。
「そういうわけで、ここのマスターは私のことをアポロンVIだと認知しているし、君のこともハデスIVだとわかっているだろう。わかっていて、何も言わないしずいぶんと口が堅い方だから、安心していいぞ」
「そうなんですか……」
「……ちなみに、マスターは初代ゼウスIの部下だ」
「えっ!?」
エウブレナは厨房に消えていった、白髪交じりのマスターの事を思い出す。確かに、かなり体格が良く、歳の割に背筋がピンと伸びた男性だったように思う。
「そう言った流れで、歴代のゴッドナンバーズの憩いの場、になっているのだろうな」
そう笑いながらアポロニオはお冷を口に含んだ。ここで大人の男らしく、ウイスキーのロックでも傾けていれば恰好がついたかもしれないが、残念ながら熱々のアルコールが飛びに飛んだ卵酒がアポロニオの限度だ。そして、ここのマスターはアルコールを飛ばした卵酒を作るのが非常に上手い。
「そういえば、アポロニオさんは仕事の方、大丈夫なんですか?」
「ん? ああ、問題ないよ。特に残業までしてこなさなければいけない仕事もない」
エウブレナが心配そうに言えば、アポロニオは首を振った。それから、目のつぶって片手で念入りに揉む。
「実は、最近、疲れが溜まっているのかどうにも見間違いが多くて……」
「見間違いですか?」
「何か通った気がして、ついそちらに気を向けてしまうのだが……実際には何もいないんだ」
他の人間に聞いても何も見えなかった、と言うし、とアポロニオは続けてぼやく。
「どうにも、会議にも集中できないし部下の報告中にも気を逸らしてしまうし。参ったものだ」
「大丈夫なんですか……」
「部下たちに早く休めと散々言われていてね。昨日も定時で上がったんだよ」
「なるほど……では週末もゆっくり休めるといいですね」
「普段より、呼び出しは控えるように英雄庁にも部下にも通達はしてある。……何しろ、私が無理に出て行かなくても若い力が多く育ってきているからな」
アポロニオがエウブレナを見ながら言った。エウブレナはその視線を受けつつも、少しばかりため息をつく。アポロニオはクリュメノスとよく愚痴を言いあっていた、と言う。だったら、今、ここで愚痴を言っても許されるのだろう。
「そうは言いますけど……やっぱり、やることも多くて……」
「フォースの運営か?」
「はい。自分だけがヒーローとして前に出るだけならとにかく、部下を動かすとなると――」
そこから堰を切ったかのようにエウブレナの最近の「悩み相談」は続いた。ほかほかの湯気に彩られたシーフードパスタをすいすい口に含みながら、その言葉は切れ目がない。ハデスフォースの話題から、まだ兼任として籍を置いているヴァンガードの話まで。
「――というわけで、また隊長が仕事をサボってエリュマの駐車場でお酒飲んでたんですっ!」
「……そうか、よくわかった」
アポロニオはオムライスセットを平らげ、スプーンを置いた。そして、厳かに言う。
「ヴァッカリオには、後で私から強く言って聞かせよう」
「そうしてくださいっ! もうっ! ほんとに隊長ったら……!」
エウブレナも、デザートのティラミスを口に放り込みながら怒り心頭、と言った顔で言葉を紡いだ。
……同じハデス区のどこかのエリュマのごみ箱の上で、成人男性が盛大にくしゃみをしたのは偶然ではない。
そうやって、溜まりに溜まった愚痴を吐き出してスッキリしたのか、セットについてきた食後のコーヒーを飲むときには、エウブレナもかなり晴れ晴れとした顔をしていた。
「ふふふ、バーとは言え、なかなか居心地のいい場所だろう? 料理も美味しいし」
「はい、とても素敵な空間ですね」
「……今後、もしアレイシアやネーレイスが同じように悩みを抱えてくることがあったら、ここに連れてくるといいさ。ここなら、多少の機密に触れることでも、許される」
アポロニオはちら、とカウンターの中のマスターに視線を送ったが、マスターは何の反応もせずに静かにグラスを磨いていた。エウブレナもその姿を見てから、アポロニオの言葉に頷く。
会計は、アポロニオは全て支払ってくれた。と言っても、エウブレナが確認した限りではそこまで高級なディナーというわけでもない。たまの愚痴吐き大会で訪れる分には問題ないぐらいの値段だった。
店から出て、ぱたり、と木製の扉を閉める。途端、ジャズが流れるおしゃれな空間から、酔っ払い達が騒ぐ夜のハデス区に。扉一枚でここまで世界が変わるという不思議な経験に、エウブレナは少しばかり気分を高揚させていた。
「そうだエウブレナ、時間も遅いというほどでもないが家まで――」
「……? アポロニオさん?」
階段を上がりきったところで、エウブレナに話しかけていたアポロニオは急に口を噤んだ。不審に思ったエウブレナが問いかけるが、アポロニオは反応しない。ただ、固まったまま、目線だけが左から右へと動いていく。
エウブレナはその視線の先に頭を巡らせてみたが、特に何もない。だが、アポロニオの視線は「何か」を確実に捉えている。
一体何が、とエウブレナが緊張感を高めた瞬間、アポロニオが急に走り出した。
「アポロニオさん!?」
数メートルほど、道路を走った先でアポロニオがきょろきょろと何かを探すような動きをする。慌てて、エウブレナも後を追った。追った先では、アポロニオが肩を落としていた。
「……すまない、また見間違えたようだ」
「見間違え、ですか……」
そう、バーに着いた時にアポロニオが言っていた話。最近、見間違いが多くて仕事に支障を来たしている、と。
確かに今の行動をされたら、周囲の人間はびっくりするだろう。何しろ話している途中にもかかわらず、突然飛び出していくのだから。それも、アポロンVIが。
「気にしなければ良いのだが……やはり、どうしても視界に収まると気になってしまって」
「……本当に、疲労だけなんですか?」
心配そうにエウブレナが様子を伺う。アポロニオは深く息を吐いて、頭を振った。
「週末に休んで、それでも改善しないようなら医療センターにでも行ってみようかと思う」
「それがいいと思います。その……少しばかり、今のアポロニオさんは異常でした」
「そうか……いや、はっきり言ってくれて助かる。自分ではそこまでの自覚症状がないものだからな……」
アポロニオはそう言って、首をひねった。
家まで送ろうか、と言うアポロニオに、逆に早く家に帰ってゆっくりしてください、とエウブレナは断りを入れた。まあ、ハデス区ならエウブレナも自宅まですぐであるし、まだ女性一人歩きをしても特に問題はない程度の時間だ。
「では、気を付けて帰りたまえ」
「はい、今日はありがとうございました。……あの、アポロニオさんもお大事にしてください」
「ああ……そうするよ」
アポロニオは苦笑しながら、ハデス区の雑踏に紛れて行った。
その後姿に、エウブレナはどことなく胸騒ぎを覚える。そういえば、昨日、ヘラフォースでアポロニオと出会ったというゾエルも、アポロニオが不調気味であることを教えてくれた。
何事もなければ良いのだけど、と不安にかられながら、エウブレナも自宅への帰路に就く。
――そして、その不安は、やはり的中することとなる。