幻視凶狂鬼哭啾啾 - 4/7

6月7日

 ヴァッカリオが英雄庁から連絡を貰い、顔を真っ青にして医療センターに赴いたところ、当のアポロニオ本人は病室のベッドで眠っていた。
 二日ほど前から眠れていなかったというアポロニオは、今、睡眠導入剤を点滴されて強制的に眠りについている。

「で、詳細は……」
「開示しますよ。そんなに怖い顔をしないでください」

 医者と、英雄庁の職員。二人はヴァッカリオの睨みに、ぶるりと体を震わせながら愛想笑いを浮かべた。長い話になる、と言われてヴァッカリオも病室内の丸椅子に座る。
 身内でもあり、同じゴッドナンバーズのディオニソスXIIでもあるヴァッカリオにはアポロニオの状況が全て伝えられることとなった。アポロニオ本人が隠す、とも言わなかったためである。……すでに、本人がそういった事を判断して口にできるほどの精神状態ではなかった、というのもあるが。
 ゼウスIによって担ぎ込まれたアポロニオは、最初こそ「異常がないのだから帰宅する」と言い張っていたのだが、その話をしている最中に突然飛び出し、診察室の医療器具や情報端末を全てなぎ倒してしまった。我に返ったアポロニオが背後を振り返った時、医者も看護師もゼウスIも、信じられないものを見たような眼をしており――それがアポロニオの心を折る一因となったのであった。
 その後も、入院棟に移動する途中、高層階であるにもかかわらず生身のまま窓から飛び降りようとしたり、たまたま目に入った鏡を割ろうとしたり。その度にゼウスIがアポロニオを取り押さえる羽目になった。
 まさに、狂乱状態。アポロニオは我に返るたびに、ひどく傷ついた顔をして、項垂れていた。ゼウスIがたまたま外で確保して、医療センターに担ぎ込んでくれて。そうでなければ、今頃アポロニオは命を失っていたかもしれないし、場合によっては罪のない人々を傷つけていたかもしれない。

「……なるほど……。だいたい、事情はわかった。じゃあ、今眠らせているのも……」
「睡眠を取ってもらう、という理由もありますが……これ以上、暴れられても困るので……」

 ヴァッカリオはその言葉に心底嫌そうな顔をした後、静かに眠るアポロニオの方をちらりと見た。規則正しく動く胸と呼吸音。だが、寝返りもせず、一切身じろぎせずに仰向けのまま眠っている姿は、あまり見たくないものに違いない。
 
「しかし、いつまでも昏睡状態に置くわけにもいきません。あと数時間もしたら、目覚めると思います」
「どうするんだ?」
「申し訳ないですが、ベッドに拘束させて頂きます」

 そう言って、医者はヴァッカリオに入院同意書を含めた様々な契約書や宣誓書を提示した。家族、あるいは保証人の同意が必要らしい。拘束となると人権侵害にもかかる話であるので、ということだった。その他、精密検査や場合によっては手術に関することまで。
 ヴァッカリオは顔をゆがめた後、仕方なくそれぞれの書類に目を通してサインをする。今は、拘束することでアポロニオの安全が守られるのだ。兄にとってはプライドを傷つけられるようなことかもしれないが、甘んじて受け入れてもらうしかない。

「で、治療のめどは?」
「立っていません」
「……アポロンVIの穴はどうする?」

 ディオニソスXIIとして、ヴァッカリオは英雄庁の職員に尋ねた。アポロンVIの穴は大きい。それこそ、ヘルメスXやアテナVII、ヘパイストスXIとは比べ物にならない程、大きいだろう。人気も実力もトップであり、そしてゴッドナンバーズを束ねる実質的長でもあるアポロンVI。
 ゴッドナンバーズからの多数の裏切りによって、各フォースに激震が走った後も、アポロンVIが残されたゴッドナンバーズと協力してうまくまとめ上げていたのだ。アポロンVIが不在となれば、一般市民はおろか、ヒーロー達にも動揺が走りかねない。
 ディオニソスXIIの不在すら伏せられ。アテナVIIも「治療中」というだけで裏切った事は伏せられている。それだけ、ゴッドナンバーズの動向には最新の注意が払われるものなのだ。

「場合によっては、アテナVIIとヘパイストスXIを呼び戻すことになるかと」
「まあ、そうなるか。おに……アポロンVIの容態は表に出すのか?」
「いえ。あくまでも『新しいゴッドナンバーズ達に現場経験を積ませるため』と言う形で、しばらく前線には出ない、と広報します」

 ヴァッカリオは英雄庁職員の言葉にふむ、と頷いた。まあ、妥当なところであろう。ヘパイストスXIは裏切り者としてゴッドナンバーズの座を追われているが、その実力は確か。さらに、アテナVIIと合わせて、二人とも今は善良なる一般市民であるはずだ。
 少し前にも定期報告として英雄庁に来ていた二人と会っていたヴァッカリオは、英雄庁の判断に納得する。むしろ、アテナVIIとヘパイストスXIの裏事情を知らないアポロニオが引っ込んでいてくれる分、二人にはもう少し自由に動いてもらえるだろう。
 ヴァッカリオは英雄庁と口裏を合わせるためにしばらく討論し、さらにその後、医者を存分に質問責めにしてから帰っていった。
 医者としても、アポロニオの体に何が起きているかはさっぱりわからないと言うのに。本格的な精密検査はこれから実施されるが、表面上の検査では一切異常は見当たらない。……場合によっては、検査で見つからない「精神障害」の方を疑う必要もありえそうなのだ。
 アポロンVI医療班は目や脳のスペシャリストだけでなく、カウンセラーや精神医も加えた大所帯となって、事に取り組んでいくこととなる。

 

「うん、わかったよ。じゃあそっちに行く準備だけはしておくね~」

 のほほん、とした人を食ったような声音で、アイスキュロイスは返事をしてから通信を切った。黙って隣でやり取りを伺っていたネルヴァが心配そうな目でアイスキュロイスを見る。

「……それで?」
「うん。アポロンVIがねえ、ちょっと、なんか病気みたい」

 アイスキュロイスはさぞ困りました、という顔をしながら、それでいて何でもないかのような声音でネルヴァに話しかけた。そのちぐはぐな態度にも、ネルヴァはすっかり慣れたものだ。

「病気、とは」
「さあ? なんか今から精密検査とかやるみたいだよ。よくわかんないけど、目の病気か脳の病気じゃないかって」

 その言葉に、ネルヴァは痛々しそうに目を伏せる。一度は裏切り、アポロンVIを傷つけて殺そうとまでした張本人とは言え、アポロンVI個人に恨みがあるわけではない。むしろ、恨まれても仕方がないのはネルヴァの方だ。
 しかし、アポロンVIはネルヴァを許した。ほんの、僅かな時間しか言葉は交わせなかったが。ただ一言、「君の事を気づいてやれなかった私にも原因がある。これから、またやり直せばいい」とだけ。その時、アポロンVIはネルヴァが見たこともない、柔らかな笑みを浮かべていた。
 よくオリュンポリスの市民からはトゥインクルヒーロースマイルなどと言われるアポロンVIの笑顔だが、実際のところ、多少の「営業スマイル」なところはあったのだ。ネルヴァはそれでも気にならなかったし、むしろ、あの時に初めて見たアポロンVIの柔らかな笑顔で、ようやくいつもの笑顔がアポロンVI本来の笑みでないことに気づいたのだ。
 アポロンVIには、ゴッドナンバーズとしての心構えや正義の在り方、戦闘技術に至るまで様々な面でお世話になった。正義の道を違えこそしたが、ネルヴァにとってアポロンVIが頼りになる先輩ヒーローであることは変わっていない。

「アポロンVIは、大丈夫だろうか」
「どうだろうねえ。向こうはまだてんやわんやしてるようだから、ちょっとよくわかんないけど」

 まあ、たぶん大丈夫じゃないの、とアイスキュロイスは欠伸をしながら言った。

「まあ、僕たちもいつ召喚されるかわかんないし。今日は早めに寝ようか」
「……うん」

 旅先のホテルで。ツインベッドにそれぞれ腰かけていた二人は、アイスキュロイスの一言で布団に潜り込んだ。一般人の寝る、にしてはやや早い時間であるが……成長期のネルヴァにとっては、早いぐらいがちょうどいいだろう、というのがアイスキュロイスの思いだ。ネルヴァはそうやって子供扱いされることを、気づいていて甘んじている節がある。
 毛布をかぶった中で、ネルヴァはそっと両手を組む。アポロンVIがどうか無事でありますように、と。願う神などいない、とプロメトリックに言われていた。願う神がいないのであれば、自らが願われる神になればよい。人々が安心して暮らせる世の中をつくるために、正義を執行してきたのが、自分だ。
 願われる神になることもできず、自身の正義も中途半端になってしまった、そんなネルヴァだが。少しずつ、自分の有り様を受け入れ、噛み締め、また自らが持ちうる正義の盾に向かって一歩ずつ近づいていく。
 願う神がいなくとも。願われる神になれずとも。今はただ、アポロンVIの無事を願い、その願いがアポロンVIの力になると良い、と純粋な気持ちで祈りをささげる。
 アポロンVIのために、ネルヴァは睡魔に負けるまで静かに祈った。

 

6月8日

 アポロンVI不在の穴は、アルテミスVIIIが埋めることとなった。もとより、太陽神アポロンと月の女神アルテミスは神話上でも双子として扱われており、アポロンフォースとアルテミスフォースは相性がいい。気性が合う人間が多い、と言えば良いのだろうか。アルテミスVIIIは英雄庁とアポロンフォースの依頼に快諾し、今は忙しそうにオリュンポリス中を飛び回っている。

「アルテミスVIIIは表に出るのが苦手と言っていたが……迷惑をかけるな」
「ん、いいんじゃない、とりあえずは裏方の調整とかがメインみたいだし」

 かくかくしかじか、現在のゴッドナンバーズ達の動きを語って聞かせたヴァッカリオに対して、アポロニオは眉を寄せて答えたのであった。ヴァッカリオはアポロニオを慰めるようにしつつ、ベッドの上に落ちていた手をとってそこに甘いココアを入れたマグカップを持たせた。
 熱いから気を付けてね、と注釈を入れ、マグカップが問題なく口元に運ばれるのを見届けてから、アポロニオにバレない程度に小さくため息をつく。
 今、アポロニオの両目は医療用アイマスクで閉ざされている。昏睡状態から目覚めた後のアポロニオはやはり奇行が止まらず、検査を受けることすらできなかったのだ。そこで、一時的な対応ということで視力を奪う、という結論を医者は導いた。その対応は当たりだったようで、医療用アイマスクを装着してからアポロニオは飛び出すことなく、ベッドで大人しくしてくれている。

「目が見えないだけなのだから、相談ごとぐらい持ってきてくれても構わないのだぞ」
「はいはい、寝言は寝てから言ってね。アルテミスVIIIが『アポロンVIならきっとそう言うだろう』って、先に英雄庁やアポロンフォースに釘刺ししてたよ。入院中のアポロンVIには絶対に近づかないように、ってお達しが出てた」
「まるで人を猛獣か何かみたいに……」
「実際、猛獣じゃん。全く、誰だよ、点滴台も病室の椅子も蹴飛ばして暴れ回ったの」

 ヴァッカリオの言葉に、アポロニオは顔をすっと反らした。見えないなりに、ヴァッカリオの方を向く気にはならないらしい。そんなアポロニオの態度に、ヴァッカリオは大きくため息をつく。
 ヴァッカリオに入れてもらった甘いココア(アポロニオとしては、もう少し砂糖を入れて欲しかった!)をちびちび飲んでいると、病室の扉が開く音がする。リベルティーナだ。
 アポロニオの病状については、いまだ何もわかっておらず。精密検査を順次用意しているが、それと同時に「神話還り関連の事件」として英雄庁の方で調査する方針を固めていた。その調査を担当するのが、アフロディテIX。
 アフロディテIXを実働させるために、アポロンVIの穴埋めにアルテミスVIIIが動く羽目になった、と言うことだ。

「お疲れ~」
「む、アフロディテIXか」

 リベルティーナの声を耳にしたアポロニオがマグカップから顔を上げる。声のした方を向きはするが、その顔の方向は少しばかりズレていた。

「結構落ち着いてるみたいじゃん。あーしが聞いたカンジだと、もっとヤバかと思ったんだけど」
「昨日も大変だったんだぜ? 見ろよあの窓」

 ヴァッカリオがそう言って指差した先には、窓ガラスではなく段ボールが貼り付けられていた。昨日、アポロニオが暴れた時に、窓ガラスに自ら頭を突っ込んでいって割った結果だ。ちなみに、その際にできた頭の傷はすでに完治している。……アポロニオの自己治癒力が衰えてないことを、図らずも証明する形となったのだ。

「こほん……で、アフロディテIXは何しに来たんだ」
「お兄ちゃん今、誤魔化そうとしたでしょ」
「あーしもアポロンVIの狂乱モード見てみたかったカモ~。まぁ、巻き込まれたらたまんないケド」

 ヴァッカリオとリベルティーナに蒸し返されて、アポロニオはむっとした顔をした。目が覆われていても、口元だけで表情が伝わる。これだから、隠し事もできないわかりやすいアポロンVI、と言われてしまうのだ。

「今日はね、あーたの聴取に来たの。ちょーしゅ」
「聴取?」
「そ。病気の線も消えてはないけど、今のところ検査で異常ナシなんでしょ? ってなったら、神話還り絡みを疑うじゃない」

 そう言いながらリベルティーナは部屋の隅に片づけてあったパイプ椅子を勝手に持ってきた。アポロニオが暴れたせいで、丸椅子は破壊されてしまったので、新しくセンター側で用意してくれたものだ。

「さーて、VIちゃん、まず、症状が始まったのはいつぐらい?」
「症状が始まったのは……数日前だな。今日は8日だったか? 確か、ヘラフォースに行った日にも見間違いをしていたから……」

 アポロニオは考え込みながら、指折り数える。しかし、やはり昨日、一昨日あたりの記憶が曖昧なのか、それとも日の感覚がなくなってしまったのか。少し悩んだ後に、ヴァッカリオを呼び、自分の荷物の中にある個人的な手帳を確認するように依頼する。

「えーっと、ヘラフォースに行った日だっけ……あった、6月3日に行ってるね」

 ヴァッカリオはぺら、とアポロニオの手帳をめくって確認する。と同時に、直近に書かれたものと思われる、「医療センター、緊急外来」と言うミミズがのたうった様な文字列を見つけて顔をしかめた。日付を見る限り、それは6月5日の土曜日に書かれたもののようだ。それ以降、アポロニオの手帳は真っ白である。そこまでは、ぎっちりと細かくスケジュールが綺麗な文字で並んでいたのだが。
 英雄庁の緊急連絡先や、アポロンフォース直通の番号、ヴァッカリオの個人端末の電話番号が記載された紙が手帳の最後に挟まれていた。ちら、とヴァッカリオが見たところ、一度握りしめたのか皺になっている。以前、ヴァッカリオが見た時にはピンと張った真っ新な紙であったというのに。
 そこまで、手を伸ばしたのであれば、その先の番号を打つぐらい造作もなかっただろう。……もっと早く、自分に電話をしてくれれば。ヴァッカリオはやるせない気持ちを抱えて、リベルティーナとアポロニオの会話に耳を傾けた。

「なーる。とにかく、視界に『何か』が映って、それを意識したら飛びつかないといけなくなる、ってことね」
「症状としてはそうなるな。症状が悪化したのは……確かエウブレナと……ハデスIVと食事に行った後、あたりだな」
「……んー、スケジュール帳の日記からすると、6月4日みたい」
「おいヴァッカリオ、必要最低限だけにしろよ。私のプライバシーを侵害するな」

 はいはい、とヴァッカリオは適当な返事をしてぺらぺらとアポロニオの手帳を捲った。予定と共に、その日にあったことが日記として書かれているアポロニオの秘密の手帳。せっかくだからいろいろ見たくもなるだろう。
 どうせお兄ちゃんは目が見えないしね、と思いながらヴァッカリオはぺら、と捲ったのだが、「今日はヴァッカリオと夕食」の一言が赤いボールペンでこれでもかと強調されていた上に、その隣に細かく夕食の献立とそれから夕食時のヴァッカリオの様子が日記として記載されていて、ヴァッカリオはぱたん、と手帳を閉じた。アポロニオの秘密でも探ろうかと思ったところで、まさか自分が逆に恥ずかしくなるとは思わなかった。少しばかり赤くなった頬を手で仰いで冷やす。

「ここ数日でいきなり悪化してる、って感じなのネー。6月入ってから?」
「まあ……すまない、私としては自覚症状があまりなくて」
「ふーん。無意識ねえ。一応、聞くけど、6月入ってからなんか変わったこととかあった? 変なもの食べた?」
「ゼウスIみたいな事を聞くな……」
「え、一緒にしないでヤダ。あんなファッションセンス崩壊野郎とか」

 リベルティーナはつん、と唇を尖らせた。もちろん、アポロニオにはそれが見えていないので……わかっていないからなのか、それとも元から気にしないで話を進める性だからか。リベルティーナの反応を無視して「特に何も心当たりはないぞ」と答えた。
 ついでに、同席していたヴァッカリオにも何か思い当たる節は? と尋ねたが、兄同様に首を振った。そもそも、アポロニオとは6月に入ってから会ってないし、連絡も取りあってない。
 これからは連絡頻度を増やした方がいいかもしれない、とヴァッカリオは一人、胸の内で決心をする。他人が聞けば実家に残してきた高齢の親を心配する子供のようなものだ。アポロニオ宅に、高齢者見守り用のシステムが導入される日も近いかもしれない。

「んん、じゃ、後はアポロンフォースとかに聞き込み、って感じかしらね」
「すまんな、迷惑をかけて」
「ほんと。トップシークレット扱いだから部下とか一般ヒーロー動かすわけにもいかないんだし。VIちゃん、これツケでよろ」

 リベルティーナはそれだけ言うと、嵐のように訪れて嵐のように去っていった。ヴァッカリオも椅子から立ち上がる。普段からエリュマで飲んだくれていると評判のヴァンガード隊長ではあるが……この事態には、ヴァンガード隊長としてもディオニソスXIIとしても慎重な立ち回りが求められている。

「じゃ、おいらも帰るから」
「ああ、わざわざ悪かったな、見舞いにきてもらって」
「いいよお、気にしないで。……代わりの人員呼ぶね」

 そう言って、ヴァッカリオはアポロニオを寝かせ、ベッドから垂れている拘束具を元に戻した。視界を塞ぐことで症状が改善したとはいえ、またいつ暴れ出すかはわからない。こうやって、アポロニオを抑えつけることができる人間がいない時は、必ず身体拘束をする事になっていた。
 それもあって、ヴァッカリオはなるべく頻繁に病室に顔を出すようにしている。ヴァッカリオも、拘束具を外して面会しても良い人間、と登録されているからだ。目も塞がれ、身動きもできない、ではあまりにも……アポロニオが不憫だ。
 名残惜しくも部屋から出たヴァッカリオは、壁に凭れているリベルティーナに鋭い視線を飛ばした。

「どうなの」
「どうも何も。なーんもわかんないわ」

 二人揃って、肩を並べて医療センターの薄暗い廊下を歩く。アポロニオの病室はナースセンターに近く、それでいて重要患者用の特別な個室だ。それだけ、重症患者として扱われてる、ということ。

「医療センターの方の検査はシロ。精神障害を疑ってカウンセリングもしたけど、そっちも手ごたえナシ」
「精密検査は明日からだったか」
「ん。あーしの勘だと、そっちも空振りだと思うけどね」

 足を止めたヴァッカリオを振り返ると、リベルティーナは肩を竦めた。そんな怖い顔して睨まないでよ、と年頃の少女らしく笑う。

「症状、完全に固定行動じゃないの。こーゆーのは、神話還りが原因って決まってんのよ」
「そりゃあ、そうだろうが……」
「あーしはもうちょっと情報集めるけど。……たぶん、集めた情報持ってヘラIIIの知恵を借りれば、あっさり片付くんじゃない?」
「……はあ。気軽なもんだな」

 ヴァッカリオは少しばかり胃が痛んだような気がして、腹部をさすった。いつ、医療センターから呼び出されてもいいようにアポロニオが入院してからはアルコールを断っている。本音としては、酒を飲まないとやってられないのだが。

「ま、その辺は任せてちょーだい」
「わかったよ、どうせ俺にできることなんて限られてるしな」
「そーゆーコト。せいぜい、お兄ちゃんのご機嫌伺いでもしてなさいよ」

 手をひらひらとさせて軽やかに去っていくリベルティーナ。しかし、彼女の実力は確かであるし、アフロディテIXが大丈夫、と言うなら大丈夫なのだろう。
 ヴァッカリオはそう信じることにして、今からヴァンガード本部へ帰還することをゾエルに連絡した。ゾエルもまた、アポロニオの異常を数日前から感じており、すでに裏で動いていたのだ。

「……これでよし、と」

 ゾエルに対して、アフロディテIXが動いているからそっちと歩調を合わせてくれ、とメッセージを送ればすぐに了解、と短く返ってくる。今のヴァッカリオは、ゾエルの部下ではなく、ヴァンガード隊より権限が強いディオニソスXIIだ。
 いくつか、ディオニソスフォースに回って来た情報を確認し、英雄庁との連絡を歩きながら処理する。ゴッドナンバーズ間の連絡網もひっきりなしに通知が表示されていた。
 が、そのほとんどをうまくアルテミスVIIIが捌いてくれている。新人ナンバーズのハデスIVや、立場が特殊なアレス零に対してもきめ細やかなフォローをしてくれているようだ。アルテミスVIIIがいてくれて、本当に良かったとヴァッカリオは改めて思う。
 ヴァッカリオの目の前には、ゼウス区のいつもと変わらない平穏な市街地が広がっている。誰も、アポロンVIの緊急事態には気づいていないようだ。英雄庁の報道コントロールはうまくいっているらしい。穏やかな喧騒に包まれて、ヴァンガード本部へと足を向ける。
 ……少しばかり、感傷的な気分に浸ってしまう。今日の兄は、夜、ちゃんと眠れるだろうか。また、睡眠導入剤が必要になって、手の甲に注射痕が増えるのだろうか。拘束具を増やされたりしないだろうか。――暴れて、誰かを傷つけたり、自分を傷つけたり、しないだろうか。

「あ~! やめだやめ!! ネガティブはダメだっつーの!」

ヴァッカリオは道の真ん中で吠える。通行人が、その様子に驚いたようにしてヴァッカリオを避けていった。
 こういう時こそパワフルワンでも飲んでパーッと気晴らししたいのだが、そうもいかない。ヴァッカリオは姿勢悪くポケットに手を突っ込み、今後の事に頭を巡らせながらヴァンガード本部への道を急いだ。