幻視凶狂鬼哭啾啾 - 3/7

6月5日

 6月5日、土曜日。今日は休日……であるが、アポロニオはベッドの上でぼんやりとしていた。普段の休日なら、いつも通りに早起きして一週間分の掃除や片づけを熱心にするのだが。

(眠れなかった……)

 一睡もできなかった。早寝早起きをモットーとするアポロニオは、昨日も早寝をしていた。エウブレナと別れて、真っ直ぐ自宅に帰り。風呂と歯磨きをしたら軽くニュースに目を通してからベッドに潜り込む。
 いつもと変わらない金曜日の夜、になるはずだった。しかし。

「……っ!」

 寝返りを打ったアポロニオは、びくり、と体を震わせて視線を左右に動かした後、飛び起きてベランダの窓へと張り付いた。寝不足でやや充血した瞳をぎょろりと動かす。

「気のせい、か……」

 昨日の夜も、こうだった。アポロニオは一人暮らしだ。せいぜい、ヴァッカリオがたまに夕飯を食べに来るぐらいで、他に誰もいない。いないはずなのに――誰かが、何かが視界の向こうで横切ったような気がする。
 それで、慌てて確認しに行くがやはり誰もいないし何もない。そもそも、ここは地上何十メートルもの高層マンションの一室。ベランダに何かが横切るわけもないのだ。
 歯磨きをしている時。風呂で頭を洗って、ふと顔を上げて鏡を見た時。着替えのためにシャツを脱いで、一瞬視界が遮られたその直後。トイレから出た瞬間。
 とにかく、何気ない一瞬、視界の向こうに「何か」が蠢く。おかげで昨夜はベッドに潜り込んでも飛び出すことが何回もあり、うとうとして無意識に目を開けてしまいまた飛び起きる、ということを繰り返して一晩を過ごした。さすがのアポロニオも、こういった現象は初めてであり、疲労の色を隠せないでいる。
 一つ、ため息をついて寝巻を着替えた。その最中に、やはり視界の端を「何か」が通り過ぎた気がして、窓に張り付く。

(……さすがに、医療センターに行くべきか……いや、今日はデメテルフォースで新システムの研修会があったな)

 食欲が湧かないなりに、もそもそと備蓄してあったパンを口に運ぶ。普段の休日であれば、朝からキッチンに立って趣味の料理を楽しむところであったが。今のアポロニオには、そういったことをする元気もない。体の疲労ではなく、常に緊張状態を強いられている精神の方が激しく疲労していた。
 本日は土曜日、ヒーローとしては休日の日である。休日の日ではあるが、デメテルフォースで最近導入されたばかりの新システムの研修会があるのだ。もちろん、平日にも行われており、業務時間内に業務の一環として研修会に参加することも可能であった。
 しかし、多忙なアポロンVIとして、「新システムの使い方がわからないので時間を確保して研修会に参加する」というのは憚られたのだ。副官や周囲の人間はそれでも良いのでは? と言ってくれてはいたが、アポロニオ自身がそれを拒否した。自分自身の力不足で、貴重なアポロンVIの稼働時間を削るわけにはいかない。
 ……それもまた、ヒーロー業がブラックと言われてしまう所以であるのだが。

「よし、行くか」

 アポロニオは喝を入れるように呟き、いつものリュックを持って家を出る。通勤に使っている自転車で向かうべきか、と思ったが、今のように視力に問題が出ている以上、運転は危険と判断して徒歩で向かうこととした。
 結果的に、それはやはり正解であったとしか言えない。デメテルフォースに向かう途中、アポロニオは何回も「何か」を見つけては、その度に店先のショーウインドウに張り付いたり、走り出してはきょろきょろしたり――傍から見れば、奇行としか思えないことを繰り返していた。無意識のうちに、「何か」に強制されるかのように、走り出す。すべての意識が、持って行かれる。
 普段から定刻より早めに到着することを是としていたアポロニオであったが、今日は時間ギリギリの到着となった。むしろ、デメテル区で定められた走行速度ギリギリのスピードで走って何とか間に合った、という体たらくである。
 空いている席は最後尾にしかなく、隅にこっそりと座った。どうやらアポロニオが最後であったようで、講師役の人間が挨拶を始める。

(間に合った……)

アポロニオは垂れる汗を拭いながら、講師の説明に耳を傾けた。
 英雄庁の新システム、それはヒーロー間の通信網の強化と効率化、また、英雄庁との通信路の暗号化をより強化したものである。ユーザーインターフェースは一新され、以前あったいくつかの機能は撤廃あるいは統合済み。新機能も複数個増えている。
 ポセイドンIIにしみじみと諭された様に、アポロニオは最新の端末を使いこなすのに四苦八苦していた。使い慣れた旧端末の方が楽ではないか、と言って若い部下から白い目で見られたことを思い出す。いわゆる「老害」に片足を突っ込み始めた、と気づいて冷や汗をかいたのも最近のことだ。

「――というわけで、基本的にはこの機能を使って――」

 講師の説明を聞きながら、サンプルの端末を動かす。アポロニオ以外のヒーローも軒並み高齢であるか、まだヒーローになったばかり、と言う若手集団のどちらかであった。その中で、アポロニオだけは少しばかり浮いている、と言っても過言ではない。
 なんにせよ、講義は着々と進む。しばし時間が経ったところで、講師から休憩の合図があった。端末を操作するのに夢中になっていて、肩がずいぶんと凝ったな、と思いながらアポロニオは伸びをする。

「アポロンVI様、失礼します」
「ん、なんだ?」

 寄って来たのはデメテルフォースの人間であった。その囁き声を耳にした複数人が振り返り、アポロンVIがいる、ということに驚いた表情を見せる。アポロニオは少しばかり居心地悪く感じながらも、メンバーに対応した。

「本日、休日とは伺っておりますが、もし時間があればデメテルV様が打ち合わせしたいことがあると申しておりまして……」
「ああ、構わないぞ。何時からだ?」
「研修終了後、一時間ほどの休憩を入れてから、でいかがでしょう」

 今日、アポロニオはこの研修以外の予定はない。申し訳なさそうなデメテルフォースのメンバーに朗らかに笑いかけ、時間を調整する。

「では、そのお時間で……」
「わかった。場所は――」

 言いかけて、アポロニオは固まった。ふと、自分の持っていた手帳から顔を上げた瞬間。

「アポロンVI様? どうされました?」

目だけを動かすアポロニオに、驚くメンバー。その声が大きかったのか、部屋中の視線がアポロニオに集まる。
 次の瞬間、アポロニオは椅子を蹴飛ばして講師がいる席近くの窓に張り付く。その激しい物音と、「アポロンVI」の異常な行動に会場は一気に緊張の糸が張り詰めた。デメテルフォースのメンバーが、人造神器を構えてアポロニオに追従する。
 しばし、窓の外を眺めていたアポロニオだったが、くるりと振り返り気まずそうに「すまない、気のせいだったようだ」と部屋中に聞こえるように言った。
 緊張が解れ、静寂からざわりとした空間へと変化していく。人造神器を構えていたメンバーも、安堵した顔をして警戒態勢を解いた。

「……すまない、やはりデメテルVとの打ち合わせは後日でも良いだろうか? 実は、最近、目の調子が悪くて……」
「なんと……大丈夫なのですか?」
「ああ。今の様に、見間違いを多くしてしまうのだ。これでは活動に支障が出るからな……今日は真っすぐ帰宅して、大人しくしていようと思う。明日、医療センターを訪問するつもりだ」

 なるほど、と話を聞いたメンバーは神妙な面持ちで頷いた。目を揉みながら席に戻るアポロニオについていく。

「……ああ、今の話は、内密に頼む。まだ誰にも言っていない」
「了解しました。……デメテルV様には伝えても?」
「ん……そうだな、デメテルVになら構わない」

 万が一、私に何かあったらどのみちデメテルVには最優先で連絡がいくだろうしな、とアポロニオは力なく笑った。その様子に不安感を覚えつつも、デメテルフォースのメンバーは今の話をデメテルVに伝えるべく、退室する。
 アポロンVIの不調と言えば、超トップシークレットに分類されるものだ。それも、明らかに目に見える「ケガ」ではなく、病気の類とくれば。最後にメンバーが見たアポロニオは、やはり難しい顔をして目や眉間、こめかみを丹念に揉んでいた。
 

 その後、アポロニオは何とか問題行動を起こさずに研修を終えることができた。端末の操作もぎこちなさはまだ残るとはいえ、大方の機能は使いこなせるようになっている。アポロニオもそこまで機械音痴ではないのだ。
 ヒーロー達がざわめく会場をそそくさと後にして、アポロニオは自宅への道を急ぐ。休憩中だとしても、他のヒーローの前で失態を起こした気まずさは、まだアポロニオの中にわだかまっていた。正直、誰にも会いたくないな、とさえ思う。
 
(後でデメテルVに謝罪しなければな……)

 休日に向こうから依頼されたとはいえ、個人の都合で依頼を受けられなかったのは、アポロンVIとしてのプライドに障った。アポロニオは憂鬱な気分を抱えて足早にデメテル区を後にする。
 それにしても、と目を揉みながらギリギリの早足で道を駆けた。全く、自分の目はどうしてしまったのか。いや、目だけではない、視界情報に伴う判断力、行動力も含めて、全部、だ。
 見間違い自体は目の問題だとしても、その後の「硬直」や「飛びつき」はどう考えても判断力に異常が出ている。つまり、脳に異常が発生しているということだろう。そういった考えに至って、アポロニオはぶるりと体を震わせた。
 もしかしたら病気かもしれない、と思うと、数多くのケガを負ってきたアポロニオも不安を掻き立てられる。昔から健康優良児で病気知らず、ケガですら持ち前の自己治癒力の高さでどんな重傷も回復してきたアポロニオだ。そんな自分が、謎の病気に襲われて日常生活に支障が出始めている。

(治る病気であればいいのだが。ヴァッカリオには……検査結果が出て、確定してから伝えるか)

 医療センターにかかれば、診断結果は自動的に英雄庁やアポロンフォースに送られて共有される。後は、身内であるヴァッカリオに告げるかどうか、だ。
 いやしかし、まだ重病であると決まったわけではない。アポロニオは頭を振って、ネガティブな考えを振り払おうとした。
 その瞬間。頭を振って、視界が揺れたその瞬間。視界の端に「何か」が映り、アポロニオはまたしても硬直する。持っていた研修の資料もすべて落としてしまった。どさどさ、落ちる資料を拾いもせずに、ただ道端で固まっているアポロニオ。
 この時、たまたま通行人が誰もいなかったのは不幸中の幸いであっただろう。奇行に走る「アポロンVI」を誰にも見られずに済んだのだから。

「……っ! ま、また、気のせい、か……っ!」

 硬直が解け、「何か」を探して走り出したアポロニオは一通りきょろきょろした後に、急に我に返って呟いた。ドッドッ、と心臓が跳ねる。それは、走ったことによるものではない。自分が知らない、未知への恐怖によるものだ。
 書類が落ちている場所に戻り、散らばった紙を拾い集める。やはりただ、目がおかしいだけではない。アポロニオは改めてそう確信した。こんな、英雄庁の機密が書かれた書類を放り投げてまで、「何か」に飛びつくのは異常だ。そもそも「何か」が「何か」であることすらアポロニオにはわからない。
 「何か」が本当に見間違いであるのか、と言う事すら、今のアポロニオにとっては判断がつかなくなってきていた。自分の判断に、行動に、全てに自信が持てない。
 今、こう考えている内容も、脳の異常による思考の迷走かもしれない。昨日、エウブレナに「傍から見ていると異常だ」と言われたことを思い出す。自分では、少し目が疲れているだけ、と思っていたのだが――思っていた以上に、奇行を繰り返していたのかもしれない。

「私は、明日、医療センターに行く。医療センターに行く。緊急外来に行く」

アポロニオは、自分に言い聞かせるように何回も呟いた。そして、研修会の書類を脇に挟み、震える手で手帳に予定を書き込む。
 手帳から顔を上げるのが怖い。また、「何か」が視界の端に映るかもしれない。……「何か」はアポロニオが視線を動かしたときに、よく現れるのだ。
 いつも背筋をピンと伸ばし、道行く人々のお手本となるように歩いていたアポロニオは、今、背中を丸めて誰とも、何も見ないように下を向いて歩いている。

 

6月6日

 良く晴れた、行楽日和の日曜日。アポロニオはカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、目を閉じて蹲っていた。セットしていた目覚ましが鳴って、体をびくりと跳ねさせる。

「朝……」

呟いて、ふら、と立ち上がったアポロニオは、何かに怯えるかのようにゆっくりと歩を進めた。
 アポロニオは、昨日も眠れなかった。それだけではない、帰宅してからずっと「何か」が目の端にちらついていて、まともに座る事すらできなかったのだ。
 食事を、と思って用意しても「何か」に気づいた瞬間にそれらを床にぶちまけて見に行ってしまう。飲み物だって、昨日はほとんど飲めなかった。ガラスのコップも、マグカップも、皿も。いくつも、落としては割ってしまい。掃除をしようとしても、「何か」に引きずられて、何も進まない。
 トイレですら、ひどいことに便器外にぶちまけてしまって、とんでもない有様であった。綺麗に掃除整頓され、まるでモデルルームの様、とヴァッカリオに評されたアポロニオの部屋は、たった一日で廃墟のようになってしまった。割れた食器の破片も、トイレの汚物も、蹴り飛ばしたごみ箱も、全てそのままになっている。
 何とか、服を着替えて、洗面をして。風呂には入れなかったが、仕方あるまい。もちろん、着替えと洗面の間にも、アポロニオは何回もベランダの窓に張り付く羽目になった。いい加減、精神の方にも異常を来たしそうだ、とアポロニオは薄く笑った。目の下の隈が凄惨な笑みに暗い色どりを添える。
 アポロニオは何度も、信頼できる副官やヴァッカリオ、英雄庁の緊急連絡先に連絡を入れようかと迷って、結局そこまではしなかった。一晩、耐えて、病院に行けば何とかなるだろう、と。だから、今日もタクシーや救急車も呼ばずに、自分の足で歩いていくつもりだ。
 もし、他の人間が昨日のアポロニオの行動を見て、部屋の惨状を見れば、すぐにでも救急車を呼ぶか、せめてタクシーを呼んで医療センターまで付き添う、と申し出ただろう。
 不幸なことに、アポロニオは一人暮らしであった。そして、死ぬまで我慢する男であり――今や、正常な判断を失ってしまった、狂人であったのだ。

 

 アポロニオは、医療センターにたどり着いた。朝早くに家を出て、普通であれば一時間もせずに着くだろう距離を、午前中全部使い果たして。何とか、たどり着いた。
 日曜日の医療センターは予約を受け付けておらず、緊急外来しか空いていない。アポロニオは青い顔のまま、受付に事情を説明して診察室へと通された。

「……なるほど、症状はわかりました。では、目と脳に絞って検査をしてみましょう」
「よろしく頼む」

 アポロンVIが緊急外来に訪れた、という情報はいち早く英雄庁へと連絡され、医師の診断が終って検査を受ける前には、英雄庁からの連絡員が医療センターに到着していた。
 憔悴しきったアポロニオの姿に、診察した医者も、受付の人間から介添えの看護師まで、そして英雄庁の連絡員も驚きを隠せずにいた。連絡員は、すぐに英雄庁へアポロンVIの容体について一報を入れる。異常アリ、フォロー体制と報道管制の準備を、と。
 医療センター内に流れる、緊迫した独特の空気。緊急外来にゴッドナンバーズが訪れるだけでも大騒ぎだというのに、よりにもよってケガ以外の要因で、しかもトップヒーローであるアポロンVIが訪れたというのだ。検査の結果次第では、オリュンポリスに激震が走る事にもなりえる。
 アポロニオ自身も含め、少なくない人間が固唾を飲んで見守った検査結果は――「異常なし」であった。

「……そうか」

 アポロニオはその結果を聞き、安堵したような、それでいてより不安を深めたような複雑な表情を浮かべた。他の人間も同様だろう。目の下に隈を浮かべ、ぼさぼさの髪の毛とよれて皺だらけの服。そして何より、怯えるかのように視線をきょときょとと動かす姿。どう見ても、普段のアポロンVIとはかけ離れている。

「精密検査を行っても良いとは思いますが」
「……入院が必要なのでは?」
「ええ。少なくとも、三日は見て欲しいところです。やはり目や脳となると、それぞれ別日に行う必要がでてきますので」

 そうか、とアポロニオはもう一度呟いて、頭を悩ませた。日常生活に支障が出てるとは言え、あらゆるスケジュールが詰まっている今、いきなり三日もアポロンフォースを空けるのは避けたい。ヴィラン対応などの突発的なものならとにかく、入院であれば事前にスケジュール調整できるはずだ、と。

「とりあえず、入院して精密検査は受ける方向にしようと思う。ただ、今すぐ、というわけにはいかないので……」
「でしたら、スケジュール調整を行ってから早めにご連絡をください。最優先で検査の日程を組みます」

 医者が頼もしい提案をしてくれて、アポロニオも英雄庁の連絡員もほっと胸を撫で下ろした。アポロンVIの健康不安は、市民に知られるわけにはいかない。ディオニソスXIIと同様に、だ。
 アポロニオはその後、医者ともう少しばかり相談事をしてから診察室を後にする。

「アポロンVI様、大丈夫なのですか?」
「明日にはアポロンフォースでスケジュール調整を終えて……そうだな、週の後半には入院できるようにしよう」
「わかりました。英雄庁としても、それに合わせてマスコミ対応をしますので」
「その辺はよろしく頼む」

 マスコミ対応、とはつまり、アポロニオが医療センターに行ったという事や入院した、という事実をどこまで明かし、どこを隠し、世論を賑わせるのか黙らせるのか、という匙加減の話だ。
 アポロニオが元気であれば、多少の注文も英雄庁に入れただろうが……今は、とにかく疲れていた。異常がない、とわかっただけでも心の平穏が多少訪れたとはいえ、食事もろくに取れてない、睡眠もとれていない、ないない尽くしではさすがにバテてしまう。
 連絡員と別れ、アポロニオは自宅への道を急いだ。また、その辺で何かやらかしても困る。

「お、アポロンVIじゃねえか」
「ゼウスI……こんなところで、何をしている」
「何ってパトロールに決まってんだろ! 俺様直々にオリュンポリスの平和を守りに来たのさ!」

 実際、英雄庁はゼウス区に存在しており、医療センターもゼウス区に併設されている。アポロニオとしてはゼウスIの顔を見ただけで説教を垂れそうになったが、ゼウスIがゼウス区のパトロールを行っている事は何もおかしなことではない。

「にしても、アポロンVI、何か変なものでも食べたのか?」
「なんだその言いぐさは。何も食べてないぞ」

 アポロニオは面倒くさそうに答えた。変なものどころか、昨日の昼から何も腹に入れてない。思わず、腹がぐうと鳴る。異常なし、と教えてもらって少し気が楽になったらすぐこれだ。即物的な自身の反応に、アポロニオは一人苦笑する。

「フーン……なーんか、アポロンVIから変な感じがするんだよなァ……」
「おい、顔が近いぞ。私はお前に抱かれる趣味はない」
「そう言うなよ、元気がないなら俺様が抱いてやるぜ?」
「私の事はいいから、さっさとパトロールに戻ったらどうなんだ」

 ちょこまかと、図体の大きなゼウスIがアポロニオの周りを動く。正直、アポロニオは本当に疲れているので、ゼウスIの相手をまともにする気すら起きなかった。説教もしないから、そっとしておいて欲しい。

「お前からさ、なんかゼウスっぽい匂いがする」
「は? 何を言って――」

 ゼウスIが首を傾げながら言った言葉に、アポロニオは眉を寄せて反論しようとした。ゼウスIの顔を見上げようとした瞬間、ぴたりと固まる。

「……アポロンVI? おーい?」

 固まったアポロニオに、ゼウスIが不審げな声を上げて目の前で手を振った。アポロニオは、ゼウスIの呼びかけを無視する。なんだよ、と憤慨しそうになったところで――驚愕の事態が起きた。

「っ! おいっ! 何してんだ!」

 生身のアポロニオが、突然、車道に飛び出そうとしたのだ。もちろん、車は高速で行き交っており、たとえ神話還りの頑丈な体だとしても、生身で飛び出せば大怪我は免れない。
 慌てて、ゼウスIがアポロニオを抱きとめる。ゼウスIに羽交い絞めされたアポロニオだが、無言のままゼウスIの腕の中で暴れ回る。

「く、そっ……馬鹿力めっ……!」

 ゼウスIは悪態をつきながらも、みしり、と筋肉を軋ませてアポロニオを抱え込む。抱いてやる、とは言ったが、こうなるとは予想していなかった。
 アポロニオは尋常ではない力でゼウスIを振りほどこうとする。しかし、ゼウスIがアポロニオを手放せば、間違いなくそのまま飛び出して車に轢かれるだろう。

「信号が変わるまで待てって!」

 アポロン神の神話還りは、怪力の持ち主でもある。アポロニオもそれに違わず、見た目以上のパワーを秘めている。ゼウスIがほぼ全力を出してようやく拮抗する程度だ。場合によっては神器の起動も必要か、とゼウスIが気を揉んでいた時。ようやく、信号が赤になり車通りが止まる。
 ゼウスIは車が全て停車したのを確認してから、アポロニオを解放した。予想どおり、アポロニオはわき目も振らずに車道へ飛び出し、反対側の方へと駆け抜けていく。

「ったく、なんだってんだよ」

 ゼウスIもアポロニオの後を追いかけた。アポロニオはきょろきょろとした後に、ゼウスIを振り返って、小さな、か細い声で「気のせいだった」と呟く。その態度に、ゼウスIは肩眉を上げた。普段のアポロンVIからは想像もつかない態度だ。

「気のせいって……それだけで、車の前に飛び出すヤツがいるかよ」
「無意識だ」
「は?」
「完全に無意識だった。何も考えてなかった、ただ、目の前に『アレ』があるから、追いかけないといけないと思って」
「……VI?」

 ゼウスIの呼びかけに、アポロニオはびくりと肩を震わせた。ゼウスIと会話をしているようで、会話が成り立っていない。その視線はゼウスIの顔ではなく、どこか宙を虚ろにさ迷っていた。
 その様子に、ゼウスIはただならぬものを感じ。それと同時に、先日から感じていた「良くない気配」を探していた自分の勘を褒める。……そう、自分の勘を信じて、何となくこの辺をパトロールしていてよかった。もし、自分がいなければ、今頃アポロニオは自動車に轢かれて大怪我を負っていただろう。

「なんだかよくわかんねーが、アポロンVI、病院行った方がいいんじゃないか?」
「……さっき、行ってきて、異常なし、だと」
「あっそ。俺様からすれば異常の塊だけどな」

 ゼウスIはそう言って、目の前で佇むアポロニオをひょい、と抱え上げた。肩の上に担ぐと、アポロニオが何をする! と暴れだす。

「やべーヤツは病院にぶち込むに限るんだよ」
「離せ! 私は異常なしだと……!」
「俺様が異常だと思った。だからお前は異常だ。異常なしなんて、関係ないね」

 ゼウスIはアポロニオを抱えたまま、ジャンプして近くにあった建物の上に飛び乗る。もちろん、ゼウス区の跳躍制限なんて無視だ。
 そのまま、屋根を伝って医療センターへ。暴れるアポロニオを担いだまま、下道を走るのが面倒くさかったのだ。

「ほい、急病患者一名」

 受付に放り投げられたアポロニオの姿に、医療センターは再び騒動の渦に巻き込まれることになる。